ニッポンキリスト教のマトリックス「心の貧しい者」なる誤訳

あの聖書に対しては誰にも引けを取らない再建主義の旗手富井氏がこう書いておられる。

自信を粉砕されるような体験は神の恵みである

tomi 2018/02/27(火) 21:35

自信を粉砕されるような体験は神の恵みである

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・3)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9-14)

1.

「心の貧しい者」の「貧しい」に当たる原語ptochosの語源は「縮こまる」という意味で、ここから「乞食」「極貧」を意味するようになった。

「心の貧しい者」(ptwcoi tw pneumati)は直訳すると「心において極貧である人」「心の乞食」である。

神の御前に「自分には誇れるところが何もない」と自覚し、縮こまって物乞いをするほど落ちぶれている状態を表現している。

ルカ18・9-14の取税人がこの例である。

彼は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」

「目を天に向けようともせず」は、神に対して自分はただ憐れみを乞うしかない破産者であると自覚していることを示している。

それに対してパリサイ人は「立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」

「ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく」「ことにこの取税人のようではない」

パリサイ人は、人と比べて満足し、戒律を外面的に守っていた。

しかし、イエスは、罪とは第一義的に神に対するものであり、心が汚れるならば罪人であると言われた。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。・・・

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5・20、28)

「心の中で姦淫を犯した」人は誰でも罪人である。

だから、神の御前に義人は一人もいない。

自分を誇れる人は誰もいない。

自分の義によって御国に入ることができる人は誰もいない。

だから「自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているパリサイ人の義」では御国に入れない。

御国に入れるのは「パリサイ人の義にまさるもの」だけである。

それは「心の貧しい者」である。

「天の御国はその人たちのもの」である。

つまり「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」という者だけが「義と認められ」る。

大筋、同意する。これはヤコブがヤボクの渡しで神とレスリングをし、その最も強い部分である腿のつがいを外される経験である。彼はそこで神の顔を見たとして、これを「ペヌエルの経験」という。霊が死んでいる人は体と魂で生きる肉となったが、その過程でプライドや価値観などをため込む。これらは一度粉砕される必要があるのだ。

が、英語やロシア語をはじめギリシャ語もできるはずの富井氏までもが”ptwcoi tw pneumati”を「心の貧しい」者と訳しておられる?! これほどに日本語のマトリックスの影響は深いのだ。これは「の貧しい(乞食)」者である。これについてはすでに指摘しているので、こちらを参照されたい(☞聖書解読と暗号解読の共通性-そのキーは何か-)。ポイントは一度刷り込みが起きると、それは無意識レベルでの思考回路を形成し、そこからいかに抜け出すことが困難になるかということ。ゆえに-

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき理性的礼拝です。あなたがたはこの世の形に構成されてはなりません。むしろ、思いを新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。-Rom 12:1-2

邦訳では「心を新たにし」と、またも誤訳であるが、「思い(nous)を新たにする」だ。かくして霊と魂の混同をはじめ、邦訳聖書のテキトーな訳により多くの人々がニッポンキリスト教のマトリックスにはめ込まれ、クルシチャンと化している。ヘブル書にあるとおり、霊と魂の切り分けが求められるのだ。

霊とか魂とか心とかの違いはどこにあるの?と思われる方は幸いである[1] … Continue reading。その疑問から真理が解かれる糸口を得ることができるのだから。

日本語だけの世界に住む人は大いなる損失を被っていることに気がつく必要がある。言語マトリックスから解かれること-これは霊的な領域にタッチし、その豊かさを成就するためのマストである。

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1 そんな区別は些細なものであり、論じるに値しないと言われるむきもあるだろうが、サイエンティストである私的には理解できない。専門用語の定義をバラバラにしてどうして共通の理解ができようか? 言葉(用語)に対する不感症は致命的である。

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