キリストの体のオーガニックなワンネスを感じること

幕屋の立て板(われわれ)は二つ(証しの数字)の銀(贖い)の台座の上に20枚(南北各面)が五本の横木で結合された。四本は外側から見えるが、これだけではひとつにならない。見えない一本が貫いていたのだ。

エクレシアの地上での現れにおいて、四役(五役ではない!)-使徒・預言者・伝道者・牧/教える(牧師・教師でない!)-は目に見えるが、これだけではひとつではない[1] … Continue reading。見えない一本が貫いている。それが聖霊だ。御霊によってひとつが実現する。

昨日、ある姉妹がこの真理を知って証しされた:自分より優れた人や明るい人を見るとジェラシーを感じたりしたが、それは他人と見るからだ。わたしはその人とひとつで、その人の性質や能力が実は自分の一部であるとわかった。ジェラシーは消えて、喜ぶことができるようになった。

まことにこれがキリストの体の体験的認識だ。それは教団教派が一致することなどではない。霊のいのちのオーガニックなワンネス。互いの中に御霊によるいのちの横木が貫いている実感である。

エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満(プレローマ)です。-エペソ1:23(岩波訳)[2] … Continue reading

 

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1 Prophetは預言師とは訳されないのに、Pastorは牧師だ。Evangelistは伝道者も伝道師もあり。つまりキリスト教という宗教の体系に組み込まれると「師」が付けられるのだ。
2 満ちている「場」ではない! 充満そのもの! つまりキリストそのものだ。聖霊派の「教会という場所があってそこに聖霊様が充満する」といった理解は聖書の真理ではない!

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