われわれの真の居場所とは:世にいるが世のものではない

最近のニッポン、人命救助で女性が土俵に上がると怒られ、男は電車で女性の匂いをかいだと訴えられるだけで痴漢にされ、子供を育てる条件は最悪、ナントカ・ハラスメントがあらゆる領域に存在して意図しなくとも訴えられるリスクを負うと・・・。ほんと普通に安心して生きられる社会ではなくなりつつあるわけ、この国は。

では、どこに安住の地があるの?

そう、それはイエスが生きていた領域。イエスは言われた、「あなたがたは世にいるが、世の者ではない」と。どういう意味? 多分にこのことが問われるのが現代であろう。それはわれわれクリスチャンのアイデンティティーそのものを規定する。われわれは単に罪ゆるされた哀れな罪人ではない! それはキリスト教のマトリックスだ。

イエスが生きる領域と見ていた光景、これに焦点を結ぶ必要がある。するとまったく異なる地平線が見えてくる。これ、まじヤバい・・・。イエスはどこからきて、どこにいたのか。あのナザレ、ガリラヤ、エルサレム? ノー。彼は天に包まれて、天の領域に生きていたのだ。確かに物理的身体を持たれ、この物理的時空間にもおられた。が、本質的には彼は霊的領域におられた。

これはわれわれも同じ。イエスとジャスト・セイムにわれわれは世のものではない!(John 17:16)そして父がイエスを遣わされたのとジャスト・セイムにわれわれもイエスによって遣わされた(John 17:18)。

イエスは重ねて言われた。

あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。-John 20:21

イエスはこの世に遣わされたエイリアン。われわれもこの世に遣わされたエイリアン。で、何をする? イエスと同じわざをだ! WOW!

マインドのマトリックスから解かれるほどに、自分のアイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスが見える。この世はマトリックス。「神はいない」とか進化論などは究極のマトリックスである。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、理解力の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。-Eph 1:17-19

カギは知恵と啓示の霊を受けること。理解力(dianoia)の目が開かれること。するとわれわれ聖なる者たちが得る希望、栄光、神のパワーを悟るのだ。マインドがマトリックスに絡め取られている限り、理解力の目は開かれない。マインドは霊と魂の接点。マインドが透明であるほどに、神の光はクリアに差し込んでくる。

メッセでも語ったが、マインドはカメラのレンズ、霊はフィルムだ。カギはレンズの前のシャッターが開くこと、レンズに曇りがないこと(☞フォティーゾ)。われわれ新しい創造、新しい生命体とされた者たち、もっと言えばスーパーヒューマンが得たものがどれほどのものであるか!WOW!

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