フェイスが働く培地と瞬間-霊のバイブレーションに浸る-

ヨブは息子たちが神を呪ったかもしれないと思って捧げ物を捧げていた。

この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5

一見きわめて信仰深いようであるが、彼の行動の根底には恐れがあるのだ。事実、彼は証ししている―

恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25

まことにFEAR(恐れ)とは「False(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(現実となる)こと」である。恐れはサタンの領域と直結し、死のパワーを解放する。対してフェイスは神の領域と直結し、いのちのパワーを解放する。

恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れを動機とする”祈り”はすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。

大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14

われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは天に突き抜けることなく、空転して地に落ちてしまうのだ。その印は衣装をとっかえひっかえするように見かけの表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。

はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。

そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17

この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得た!」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。神のわざはすでに天地創世の時に完成しており、それがこの五感領域に現出するのだ。

もっとも神のわざは天地創世の時に完成していたのだ。-Heb 4:3

霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。それが敵が接近する足台となる。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ[1]ニューエイジで言われる用語の実質は元々は聖書由来なのだ。彼らはわれわれの本来のフェイスをパクっているだけである。。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。あなたのフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに

天国は幼子のものである。-Mark 10:14

聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)の指し示すリアリティーに入り込み、それに直接タッチすることだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。

それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。-Hab 3:16

これがフェイスのパワー。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して単なる知識ではなく、啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーションにより地を柔らかくほぐされ[2]創世記1章2節の「神の霊が動いていた」の原意は、リラックスして振動しているだ。つまりバイブレーションである(☞詳細はこちらを)。、聖霊によるレーマを聞くことができる者は幸いである。

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1 ニューエイジで言われる用語の実質は元々は聖書由来なのだ。彼らはわれわれの本来のフェイスをパクっているだけである。
2 創世記1章2節の「神の霊が動いていた」の原意は、リラックスして振動しているだ。つまりバイブレーションである(☞詳細はこちらを)。

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