フェイスのサブスタンスを語り出すと実体化される

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの現れである。-Heb 11:1(私訳)

よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。これらはみな自意識過剰症候群だ。つねに自分の何かを強迫的に気にする傾向が、特に、ニッポンキ業界には多い。

実は信仰はそのようなこととは一切関係がない[1] … Continue reading。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは天地創世の時にすでに完成されていた神のリアリティー(Heb 4:3;Rev 13:8)。私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。

そもそも世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の事実がサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかし主の目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ。

サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても(☞信仰と希望について)。くどくど長たらしく祈る必要もない(Matt 6:7)。ふっと霊を開けば良いのだ。霊のサブスタンスと自分の間に何か薄紙のようなものを挟み込んではならない。ダイレクトにソレに触れるのだ。神の国は<今・ここに>あるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。

私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる(Luke 15:31)。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された(John 14:12)。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。まことに私たちは神の国のパワーポイントなのだ!

このときに大切なことがある。

預言者の霊は預言者に服従するものである。-1Cor 14:32

この御言葉はすごい。預言者の霊(複数形)とは何か?もちろん聖霊の(現れ)こと。Vincentはこう解説する:

The movements and manifestations of the divine Spirit in the human spirit, as in 1Cor 12:10.

1コリント12:10にあるように人間の霊における神聖な霊の種々の動きや諸々の現れのことを指す。ここでは私たちが癒しの言葉や知識や知恵の言葉を語り出すとき、聖霊は-もちろん、いわずもがな、聖書の御言葉の原則に反しない限りであるが-私たちの意志に服されるのだ。ゆえに私たちはサブスタンスに触れたら、すなわち信を得たら、語り出すこと。あるいはその自覚がなくとも、御言葉をDecree(法的効力の宣言)すること。これで一つの霊的任務が完結するのだ。ただ恵みを受けて気持ちよくなりたいだけの人もいると思うが、私たちは祭司であり預言者。そして王として権威を行使する必要があるのだ。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

フェイスは霊である。その霊を解き放つこと。神はサブスタンスを「XXよ、あれ」と解き放たれた。するとXXは存在するに至った。この原則は私たちも適用されるのだ。しばしば魂(特に思い=マインド)ががんじがらめになっている人は言葉を発せない。敵に縛られたまま、黙々とその中で生きることに慣れてしまっている。2,3年前に誘拐犯に監禁された女性が自由にコンビニに出入りしながらも助けを求めなかった事件があった。彼女はその犯人との関係で構築された空間のプロトコルに従っていれば命だけは保証されると刷り込まれたのだ。これはDVを受ける妻やパワハラを受ける会社員なども同じ。彼らは声が挙げられなくなる。人はこうして何かの奴隷にされるのだ。

かつてのアメリカの黒人奴隷と同様に、すでに奴隷解放宣言が発効しているのに、彼らはあえて奴隷状態でいる方が楽なのだ。人はしばしば貧困・病気・困難・弱さ・自己憐憫など、ネガティブな状況にあえて留まるものだ[2] … Continue reading。彼らにとってはそこがコンフォート・ゾーンになっている。だから主イエスは盲人に対して、「あなたはわたしに何がしてほしいのか」とか、「治りたいか」と質問された。その「治りたい」という意思表示が癒しあるいは解放への第一歩なのだ。

クリスチャンよ、大胆にフェイス=サブスタンスを語れ!

 

00votes
Article Rating

References

References
1 よく自分の”信仰”に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の”信仰”を見ていると罠に落ちるのだ。人の何かによるものではないのだから。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5
2 この時に正当化のためによく使われるのが、イエスは病人を招くために来たとか、健康な者に医者は要らないとか、彼は弱者に寄り添ったとか・・・。これらは自己憐憫の投影に過ぎない。イエスは決して同情はしなかった。目の見えない盲人の目に泥を塗ってシロアムの池に行って洗えと命じた。なぜそこで目を開けなかったのか。フェイスは行いによって完成されるのだ。主は彼を同情し、寄り添ったのではない。あわれんで、その状態から解放されたのである。同情(sympathy)と憐れみ(compassion)は異なるものである。同情はしばしば自己憐憫ワールドを肯定し、その中に人を置き去りにするのだ。

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x