義人はポイントで生きる-フェイスによる実体化-

ここに物理的時空間がある。私たちはその中に物質からなる肉体を着て生きている。同時に霊的世界がある。私たちの霊には聖霊によりキリストが住まい、彼は御父に開く門である。この物理的時空間が普通の人にとってのリアリティーであり、霊的世界などはほとんどSFあるいはオカルトとされる。が、実はこの世界がこの物理的時空間を形成するのだ。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 1:3;11:3

「本質」はサブスタンス、「ことば」は共にレーマ、語り出されたことば、あるいは今語られつつあることばだ[1]ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。要するに何かを表現する固定的かつ客観的な言葉である。。神が語ればそれは物質的世界の要素や事象を形成する。生身の人間も水面を歩く。神は霊的世界から物理的時空間に介入されるお方。イエスご自身が霊なる神のサブスタンスの物質化(受肉)だったのだ。「見える世界」と「見えない世界」、あるいは「触れる世界」と「触れない世界」。要するに五感で感知できる世界とできない世界[2] … Continue reading。あなたはどちらによりリアリティーを感じるだろうか。

イエスは見えない神が五感の領域に実体化された存在。だからヨハネはグノーシスに対抗して、「よく見て触ったもの」とあえて強調している。彼はナザレ時代の生活、すなわち30年間、われわれとまったく同じ人間生活を送られた[3] … Continue reading。神が肉体を取った(=幕屋を張った)。これが受肉の奥義である。イエスというお方は神のサブスタンスの肉体化、なんという不思議なことではないか。

主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから[4]旧約では受肉前のYHWHがみ使いとして出現する場面がよくある。ここの主のみ使いもYHWHご自身である。、死なねばなるまい」と言った。-Jud 13:18-22

むしろサブスタンスの存在する見えない世界の方により惹かれるようになった。あるいは「見えない世界」と「見える世界」の接点に働く信仰、すなわちサブスタンスとその現出の重要性を深く感じる。今回のメッセではポイントを現物に引き換えることをもって解き明かしたが、霊のサブスタンスはフェイスにより五感の領域に現出する(Heb 11:1)。イエスが私たちに求めるところは、御心が天になるとおり、地にもなるように、だ。つまり「見えない世界」が「見える世界」に現れ出ることだ。そのために神は天を裂かれたのだから(Mark 1:10)。

クリスチャンはニュー・クリーチャー。ただの人ではない!(1Cor 3:3-4 [5] … Continue reading)この二つの世界の狭間に生きる存在。クリスチャンが自身のアイデンティティーと居場所、そして権威と能力に目覚めたら、闇の王国にとっては恐るべき脅威であろう。だから、クリスチャンを目の前の世事で振り回して、その日常性に幽閉しているのだ。この喩えの意味が新しく開けている。

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」-Matt 13:3-9

物理的時空間の自然科学などの法則で生きるのか、霊的領域の信仰の法則で生きるのか[6] … Continue reading。これは霊と魂の接点であるマインドによって決定される。マインドがトランスフォームされること[7] … Continue reading。これは終末を生きる私たちの緊急の課題であると思う。

この世の形に構成されてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思いを新たにして自分を変えていだきなさい。-Rom 12:2(私訳)

今回のメッセでも語ったが、義人はポイントで生きるのだ! それは神の意識の領域に生きること。まことにスーパーナチュラルな経験だ。

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1 ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。要するに何かを表現する固定的かつ客観的な言葉である。
2 われわれが「存在する」と認識するのは、例えば五感で感知できない電磁波でも、何らかの媒体(TV、無線、スマホなど)を通して五感で感知できる形にしたときに可能となる。これを五感による実体化と言う。
3 イエスはこの30年間をただ無為に人として生きていたのではない。つねに霊的領域との接触にあって生きていたのだ。だから12歳ですでに自分の真の父を知っていた。家族からするとよほど不思議な子供だったと思う。そこでかつてとは違う意味でナザレ時代の彼の生活に関心を覚えるようになっているところだ。
4 旧約では受肉前のYHWHがみ使いとして出現する場面がよくある。ここの主のみ使いもYHWHご自身である。
5 ここには「ただの」はないが、あえて付けておく。ホモサピエンスではないと言えばよいだろう。では何? ネオ・ホモサピエンス、新人類である。
6 実はこの法則を変更することはかなり心許なさを覚えるのだ。これまで慣れた縁(よすが)から手を離すことだから。ちょうど補助輪付き自転車から補助輪を外す時のようなものだ
7 これはキリスト教の神学とか思想から自由だとか、自分なりのユニークな考え方や視点だとか、御言葉の解き明かしの切り口が新鮮だとか、そういったことととはまったく違う。それはあくまでも物理的時空間でのこと。鍵は霊的世界のサブスタンスを把握できるかどうかが問題なのだ。

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