三神一体とは言えないが実質はそれだと再建主義者
再建主義者富井氏の三位一体論。彼は明確に主張している、
神は「存在論的に三人であり、契約的に一人である」のほうが正しいのではないか、と問題提起したわけです。
つまり三人の神々がおられ、契約的に法人としてひとりであると。しかし三神一体とまでは言えないが、実質はそう言っていると。
・・・うーむ、どっちなのですか?彼は中間領域はないとしている以上、いずれ白黒はっきりしなくてはならないのだ。
繰り返すが、われわれにとっては父・子・聖霊の3パースンズ(位格)におられて、本質において同質であるとすることで何ら問題を覚えない。量子は粒子であると同時に波動でもある。ピリオド。自然界は霊の世界の模型。われわれの認識能力はそこまでなのだ。
ゆえにわれわれはこのお方に服するのみである。聖霊は御子を証しし、御子は御父を証しする。この存在をそのまま霊において受けれて、味わうこと。これがフェイス。それはマインドの映像や理論ではなく、霊における実体験なのだから。
そこで私は信条を調べたのですが、そのような記述(つまり神は存在論的に一人である)がないのです。
ただ「神はお一人であり、三つの人格がある」としか述べていません。
その場合、次の2つの解釈が可能です。
(1)神は「存在論的に一人であり、同時に、三つの人格がある」
(2)神は「存在論的に三人であり、契約的に一人である」
そこで私は(2)のほうが正しいのではないか、と問題提起したわけです。
なぜならば、聖書は「神は似姿として男女を創造された。その男女は一体となる。」と啓示しているからです。
男女はそれぞれ別の人格ですが、結婚を通じて一体となり「一人の法人」になります。
そして、これが「神の似姿」であると。つまり、「神とはこのように別の人格であるが、契約を通じて一体となっている」と解釈できるのです。
この私の議論に対して、伝統的である(と言われている)解釈では異端らしいのです。
そこで、私は異端であるならどうして異端なのかを示してほしいと主張しているのです。
私は、自分の立場が誤謬であるならば、潔く自分の考えを捨てます。
こだわりは一切ありません。
聖書が究極の権威であり、判断基準なのですから、それに従います。
メールをいただいたときに、強く感じたのは「三神一体」という言葉から受ける違和感です。
「三位一体」なら違和感はありません。
「三人格一体」でも違和感はありません。
しかし、「三神一体」は強い違和感を覚えます。
なぜなのかと考えてしまいました。
もしかして「三人格」を「三神」と明言することは、聖霊が望んでおられないのではないかと思いました。
というわけで、現在の私は、「三神一体」までは主張できません。
しかし「契約による一体説」は実質的に「三神一体」を主張しているわけです。
正直なところ、自分にとって「この問題についてはペンディングにするしかないのか」と思っています。
神が示してくださるのを待ちます。
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