「パーシャルプレテリズムだけが正しい終末論である」と再建主義者

すでに再臨が二回あるとする、すなわちAD70と千年期の後AD3,000年あたりにイエスは再臨するとし、結局のところ都合三回地上に来られることになる同氏の論については論駁し得たと思うが、改めて再建主義の富井氏の論を検討してみよう。

なお啓示録は未来の事象を予言するのものではないとする立場をプレテリズムと呼ぶ。その中にも、今は千年期とする立場=パーシャルプレテリズム=とすでに新天新地であるとする立場=フルプレテリズム=に分かれている。前者はAD70までに啓示録19章までは成就したとし、後者は以降も成就しているとする[1]この説が成り立つためには啓示録がAD70年前に書かれている必要があるが、これについてはこちらで論駁している

ポイントはマタイ24章34節(Matt 24:34)の「この時代(genea)」を物理的意味でとらえて高々40年とし、神殿の崩壊はAD70年のローマのタイタスによるとする。神殿崩壊についてはそのとおりである。が、主の予言がカバーするのはその部分だけではない。「終わりの時(日)」と言ったときに、ペンテコステから主の再臨までのスパンを指していることは明らかである。また彼の意味で理解する場合、パウロは偽預言者となるべきことをすでに論証した

ここでマタイ24:1-31(Matt 24:1-31)は地的イスラエルに対するものであり、同24:32から25:30(Matt 24:32-25:30)までは霊的イスラエル(=エクレシア)に対するもの[2]ただし、私は置換神学はとらない。イスラエルとエクレシアの選びは次元を異にするものである(教会とイスラエルの関係について、そして同25:31-46(Matt 25:31-46)までは諸国に対するものである。この流れをして主はこの時代と呼んでいるのであり、必ずしもAD70までの事件ではない。つまり、時間的な意味ではなく、人々の霊的状態を意味している[3]例えば、Matt 11:16;12:39-45における意味は物理的時間としての時代ではないことが分かる。

引用

tomi 2018/12/06(木) 11:47

パーシャルプレテリズムだけが正しい終末論である2

プレ・ミレの決定的な欠点は、聖書の裏付けがないことである。

これから大患難時代がやってくるという。

すでに述べたように、大患難は紀元70年以前に起きた。

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)

この聖句は、プレ・ミレを徹底的に粉砕する。

時代の限定をはっきりと示しているからである。

今のプレ・ミレ陣営は「預言の二重性」という教理によってこの問題を回避している。

つまり、「この大患難の預言は、一度紀元70年以前に成就し、もう一度終末の時代に成就する」と。

このような解釈は「預言の私的解釈」であって、絶対にやってはならないことである。

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(2ペテロ1・20)

「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」とイエスが言われたら「大患難は『この時代』に起きた」のである。

それ以外の意味を「読み込む(eisegesis)」ことはできない。

イエスの再臨が紀元70年以前に起きたことを示す箇所はほかにもある。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)

「ここに立っている人々」が「死を味わわない」うちに「人の子が御国とともに来る」ことが起きると、イエスは言われた。

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・1-3)

プレ・ミレの人々が「終末」と解釈しているマタイ24章は、紀元70年に関する教えである。

「あなたの来られる時や世の終わり」を終末と解釈してはならない。

なぜならば、3節で「あなたの来られる時や世の終わり」は「そのようなことが起こる」時を意味するからである。

「そのようなこと」は何を意味するのか。「宮」の「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決して」ないこと、つまり、神殿崩壊である。

そして、この神殿崩壊は、どの神殿のことを指しているのだろうか。

プレ・ミレの人々は、「終末に再建される神殿だ」という。

しかし、どこにもそのようなことを示唆する箇所はないのである。

むしろ、イエスはこの神殿を「当時建っていた第2神殿」を指すと明示しておられる。

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21・6)

ルカの並行箇所であるこの節では、「あなたがたの見ている」という限定語句がついている。

「あなたがた」とは弟子たちである。神殿とは「弟子たちが見ている神殿」であって「終末に再建される神殿」ではない。

これで、プレ・ミレの「再臨未来説」は徹底して粉砕された。

プレ・ミレには、聖書のバックアップがない。

再臨は、紀元70年の神殿崩壊を意味するのであって、これから起きる(とプレ・ミレの人々が言う)終末の出来事ではない。

新約聖書の手紙において弟子たちが述べている「終わりの日」は、紀元70年の神殿崩壊を前提として語られた言葉であって、21世紀に住むわれわれに向けて語られた言葉ではない。

それゆえ、「これからまもなく終末が来る。携挙が起きて、その後、大患難時代がやってくる」というディスペンセーション主義のプレ・ミレの教えには、正当性はまったくない。

 

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1 この説が成り立つためには啓示録がAD70年前に書かれている必要があるが、これについてはこちらで論駁している
2 ただし、私は置換神学はとらない。イスラエルとエクレシアの選びは次元を異にするものである(教会とイスラエルの関係について
3 例えば、Matt 11:16;12:39-45における意味は物理的時間としての時代ではないことが分かる。

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