「クリスチャンは実質的復活ではなく契約的復活に与る者である」と再建主義者

なるほど、これで再建主義に対する違和感の理由が理解できた。彼らは霊(spirit)と魂(soul)と体(body)の区別ができていないのだ。

クリスチャンに与えられた祝福が世界をも祝福してきたことを認めるべきである

復活には二種類ある。
契約的復活と実際的復活である。
われわれクリスチャンは、契約的復活に与った者たちである。
われわれがこの世界に働きかけ、われわれが統治する領域を神と和解させるにつれて、世界も契約的に復活する。
たとえば、反キリスト的なニュースを流す出版社を経営していた人がクリスチャンになって、神の栄光と救いを広める書籍を出版し始めるならば、彼は、出版業を通じて世界を復活させることになる。
エデンの園にいるわれわれのところに流れてくる祝福の水を、世界に流し、乾いた土地を潤し、そこに命が芽生えるならば、世界は復活しつつある。
しかし、この復活は、契約的であって、本格的・実際的な復活とは言えない。
歴史の終わりに第二の復活が起きる。
そのときに、世界は実際的に復活する。
キリストにある万人に「御霊のからだ」が与えられ、われわれがなした業績は「永遠に朽ちることのない相続」となる。
契約的復活は「三日目の復活」であり、実際的復活は「七日目の復活」である。
清めは2段階で行われ、三日目の清めと、七日目の清めがある。

私たちのシェーマはこうだ:われわれは霊の実質的復活得て、YHWHなるお方がうちに住まわれるニュークリチャーとされている存在(霊の再生/再誕)。魂は旧創造に属する大脳と体に残るアダム系の残滓により古い価値観や生き方の残滓を書き換えられている途中(聖化/メタモルフォーシス)、そして主の再臨により体が文字通りの新創造の体、すなわち霊の体に変貌される(栄光化)。

極私的には聖書を理解する場合、経綸的な側面と本質的側面を区別している。経綸的とは人間との関りにおいて神のご計画の時系列進展、本質的とは時空間を超えた霊の領域のリアリティに関する真理である。

神のエコノミー-いのちのディスペンセーション-

再建主義における「契約的」と「実際的」の区別は私の区別と微妙にずれていることが分かる[1] … Continue reading。同様に、すでに指摘したが、キリストの内住も契約的なものであり、実際的なものではないとする。しかし、聖書はこう証しする:

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―-2Cor 13:5

極私的に言えば「フェイスとはI-AMの実体化である」。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がI-AMであること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。-Heb 11:6

イエスは明確にこう言われた:

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。・・・わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。-John 14:18-23

再建主義においては聖書の理解のフィルターが根本的にバイアスされていると判断せざるを得ない。

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1 「契約的」の意味がそもそも不明である。私たちが神の子であることも再建主義によれば、あくまでも契約的なものであり、実質的なものではないとする。つまり法的な親子関係である養子である。が、聖書は明確に私たちは神から生まれたと言われているのだ。

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