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不信仰な者に弁解の余地はない

いつもの再建主義の富井氏のこの主張、まことに同意するものである。

彼らはわれわれが正しいことを知っている

ノンクリスチャンにしても、聖霊によって生まれ変わっていない自称クリスチャンにしても、クリスチャンが聖書に基づいて行う議論が正しいことを理解できる。

どんなに「神はいない」とか「聖書ではそうかもしれないが、私は違った意見がある」と強がっていても、神は必ず、超自然的なアプローチをされ、聖書的議論が正しいことを圧倒的な力によって彼らにお示しになる。

だから、言い逃れができないのである。

ニッポンキリスト教において行われてきた妥協と欺瞞が、今や、ネットではそれが正しく当然であるかのような悲惨な状況となっている。彼らは人間の自己憐憫と嗜好に添う偽りを提示している。彼らは御言葉を毀損し、主の血と十字架を貶め、自らに裁きを招きつつある。そもそも信じない者はすでに裁かれているのだ(John 3:18)。さまざま理屈によって真理を毀損してまで何ゆえに自己を正当化しようとするのか。それは自分で分かっているからだ。自分が神に受け入れられていないことを。受け入れられている者は何もあえて主張するまでもない。御言葉どおりこの身になりますように、アーメン、ピリオド。かくして彼らは自らの内的葛藤を露にしてしまっている。なぜなら-

すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。-Rom 2:14-15

どうして神がおられずして、この人体が成り立ちえようか。自然が存在し得ようか。それらの精妙な造り、美しさ。まさに

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。-Rom 1:20

とあるとおりだ。終わりの時代、サタンは躍起になってわれわれを訴えるであろう。しかし彼は自分が虚しいことをしていること、さらには彼自身の運命を知っているのだ。ただひとりでも巻き添えを作りたいだけなのだ。富井氏が言うとおり、不信仰な者に欺かれない者は幸いである。

追記:その後、ディスペーナリズムは古い人が喜ぶ、と・・・。聖書がポストレミ、プレミレのどちらを述べるかは火を見るより明らかとも言われる。すなわち、ニ回の「再臨」があり、二回の「携挙」があるわけだ。聖書はそんなことを語っている?実に不思議だ。

追記^2:Dr.Kさんが神の国と天の御国について、再建主義の一番の問題点を突いておられるます(→みことばざんまい)。

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