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清夜吟-邵雍

8月7日は二十四節季の立秋*1。この日は新月ではあるが、秋と言えば月。この詩は北宋の邵雍(しょうよう)の作。儒家の学者だったが、三十代に洛陽に居を定めて後、官位を拒絶。終生、在野で送った。自家を「安楽窩(か)」と呼び、自身を「安楽先生」と称した。その姿勢は「自得」*2。世俗の喧騒を離れて幽棲する楽しみを多く歌った。いや、きわめてDr.Luke的ではある。

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月 天心(てんしん)に到る処
風 水面に来る時
一般の清意(せいい)の味わい
料(はか)り得(え)たり 人の知ること少(まれ)なるを

注:ここの「一般」は「ひとつの」とか、「ある種の」の意味。現代とは異なる。

月が天空の真ん中にさしのぼったころおい、
そして、一陣の涼風が水面を波立たせて渡り行く、そのとき
見る者の心にある種の味わいをもたらしてよいものなのだが、
どうも世間の人々はこのすばらしい夜の景色をほとんど知っていないようである。
(石川忠久編『漢詩鑑賞辞典』より)

彼の目から見ると、世間の人は生活や人間関係、その他の雑事に追われ、日常に埋没し、消耗し、このような景色を楽しむ心の余裕もないのは哀れだ、と思われるのだ。人は心を何かに占有されると、他のモノはカクテルパーティ効果で認知の領域から排除される。そしてその問題を見つめれば見つめるほど、それは巨大なものとなってのしかかるのだ。私たちの思い(mind)をどこに置くのか、信仰の鍵もここにある:

肉の思いは死であり、御霊の思いは、いのちと平安です。-Rom 8:6

今、自分はどこにいるのか、と気にして勝手に苦しむ人がけっこういるが、判断は単純だ。自分の内側がいのちと平安で満たされていれば、御霊の思い、あるいは霊的な思いの内にあるのだ。もがくのではなく、信じるだけ。御言葉にはこう書いてあるのだから:

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。-1Cor 2:16

書いてあることを書いてある通りに、「アーメン」と言ってキリストに栄光を帰するだけだ(2Cor 1:20)。なんと単純なこと 自分の思いを用いてアレコレ、神学だの、高等批評だのと、御言葉を弄ぶことは、自縄自縛の罠に落ちるだけ。それこそが自分を"神"にしている恐るべき罪なのだ。しかし、すべては自己責任。苦しむのも自作自演なのだ*3。しばしば魂が強い者ほどご苦労様にも苦しむ*4。自殺もその頑なな魂の刈り取りなのだ。あなたの信仰があなたを救うのだから。しかも、主のくびきは軽く、魂に安息を下さる、と主は言われるのだ。わが反応は感謝だけ。かくして私もわが家を「安楽亭」とでも称しようかしらん

信仰の勝利とは何か?「エイ、エイ、オー」と決起すること?アブソリュートリー・ノー!それは主の内にひたすら

休む or 憩う
ことだ。

*1:この日は福島入りしているゆえに今晩UPする次第。
*2:均整が取れた充足状態に自分を置くこと。
*3:ただし、霊的な敵による思いへの攻撃もあるので要注意。私たちは神、サタン、人の三角関係のダイナミクスの中に生きている存在である。
*4:もうひとつは、病む人は多くの場合心に偽りを抱えている。自己欺瞞だ。それを回避したり、散り繕うことが苦しみを生むのだ。

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