ノー・エクスキューズ
- 2015/02/01 08:13
- Category: 信仰
- Tag: 神の国 レーマ 信仰
「・・・ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、なんでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」-Mark 9:22-24
イエスは明確に言われた:all things are possible to the one that is believing.(YLT)
これをどう受け取るのか。いろいろ、あれこれ、それぞれ、これまでコンフォームされた思い(mind)の形に従って、コメントあるいは注釈をつけるだろう。事実、講解書にはついている。あるいは軽くスルーしておく手もある。が、ここで、この父親はいっさい弁明や注釈をしていない。ただ、叫んだ、不信仰な私を助けてくれ!と。するとイエスはレーマを発し、子供は解放された。
ペテロもイエスが湖面を歩くのを見て、単純に、私も・・・と願い出ると、主はその願いに答えて、「来なさい」とレーマを発せられた。すると単なる人であるペテロも水面を歩いたのだ。
この二つの場面で共通することは、
①イエスに率直に求める
②イエスが言葉(レーマ)を発する
③信仰が息吹かれ、結果を生む
言い訳や自己弁護、自分の思いに合致させる操作などをするとき、信仰はストップする。なぜなら主の言葉が発せられないからだ。信じられないときは自分の何かを保つために解釈や結論を出すことなく、今の私には信じられません、あわれんでください、と申し上げることが最善なのだ。パリサイ人たちは自分の何かを保つためにイエスのアイデンティティーと業を否定した。まことに神の国は幼子のものだ。
追記:信仰は聞くことから、聞くことは神のことば(レーマ)によるとあるが、この点についてはDr.Kさんが実に重要な指摘をされている。