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十字架教の罠

「自我を砕きぃ~」、「自己を十字架につけてぇ~」と叫ぶ向きがニッポンキリスト教によく見られる。かくしてクルシチャンが大量に生まれる。何度も言っているが、自分で自分を十字架につけることなどできるわけがない!彼らは自分が何を言っているか分かっていないのだ。主は言われた、自分の十字架を取って私に従え。魂を救おうとする者は失い、失う者は得る、と(Luke 9:23-24)。ポイントは、私たちは魂を得るのだ!魂が栄えるために十字架を取るのだ。

Dr.Kさんがニーの『キリスト者の標準』を詳細に検討されている。その中でこう指摘されている

 キリスト者の間の考え方にある種の混乱がある。

主の十字架の価値が分かった上で生じる混乱だ。

くどいようだが、再度ローマ6:6に注目したい。

ローマ6:6b,c
本当に分かっているのか、このことを
我々の古い人は主とともに十字架に付けられた
罪の体が廃棄されるように
もはや我々が罪に縛られることがないように
(Nee訳+意訳)

この聖句において次のことが分かる。

あの出来事を、過去の、まさにあの場所へと回帰させていく動詞時制となっている。

しかも、最初で最後、ただ一回のみのイベント。

事は必ず完了し、なされないままでは終わらない。

我々の古い人は、ただの一度、そして永遠に十字架に付けられてしまった。

よって、二度と十字架に付けられることはない。

これが知識であり知恵だ。

この一回限りの十字架でアダムにある私たちは終わったのだ!そしてキリストと共に死に、復活した。今や、新しい創造ニュー・クリチャーとされている。これが我々の真のアイデンティティー。罪ゆるされた罪人ではない!新しい人類なのだ*1

十字架はこの新しいアイデンティティーに反する要素を処理する場。特にマインドが鍵になる。私たちのマインドは霊と魂の接点であると繰り返しているが、偽りを信じ込まされているマインドは信仰を阻害する。そして大脳辺縁系の諸々の欲望や感情を生み出す"自分"を自分と思い込んで、それをなんとか改善したり、聖化しようと務める。何度も言うが、それは幻想。何度も何度も自分はまだだ、まだ足りない、まだきよくない、まだ忍耐がない、まだ・・・・、と果てしなくグルグル周りする*2。人生はそんな葛藤に明け暮れるほど長くない。

新しいニュークリチャーとしての私に反するマインドの思いをまず捨てること。御言葉に矛盾する思いを取るのか、真理を取るのか。その選択の場が私の負うべき十字架なのだ。前者を選べば、大脳辺縁系からエネルギー(リビドー)が私たちの魂をトライブ(駆動)する。それは不安・緊張・焦りなど死の感覚に満ちる。後者を選べば、御霊のエネルギーが魂をドライブする。それはいのちと平安だ。魂は思い・感情・意志が健やかに活動して、文字通り繁栄する。そのときあらゆることで繁栄し、健やかであることができるのだ。十字架教から解放されよ!

愛する者よ。あなたのたましいが繁栄していると同じく、あなたがすべてのことに繁栄し、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。-3John 1:2

*1:もちろん体が旧創造に属するから時にいろいろな罪は犯す。しかしアイデンティティーは罪人ではないのだ。New Creatureが有する権威と能力のポテンシャルはすごいものがあるのだ。make sense?
*2:大抵は聖書の言葉を用いてぐるぐる周りを正当化するが、彼らのマインドはしばしば自作自演の葛藤にはまっているだけだ。この無駄な努力をやめることが実は十字架なのだ。十字架は魂のレストの場だ。

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