楽しむ
- 2009/11/15 08:09
- Category: 信仰
気持ちのイイ走りができました。これからが楽しみの本番です。
さて、実に面白い記事です。かの再建主義の富井氏がこう書いておられる:
形を整えることによって、自分が信仰を深めたような、神に近づいたような気持ちになるから。
私は、ロヨラや、ケンピス、ジョン・ウェスレーに同じものを感じる。
敬虔さを強調し、生活の聖さについて多くのことを語るが、信仰義認が出てこない。
自分の内面への洞察は出てくるが、イエスによって罪赦されたことの喜びについての言及が少ないかまったくない。
ずれているのだ。焦点がイエスではなく、自分に向いている。
こういう伝統が西洋のキリスト教にあるのだ。我々は、注意しなければならない。
この世界に存在するものは、「楽しむために」あるのだ。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ65・18)
自分から進んで苦難に向かうとか、苦しみを愛するとか、そういったマゾヒズムが、ヨーロッパ流のキリスト教にはある。
これは、ひとえに神の法から離れたからだ。
基準が自分の目、思想にあるからだ。
だから、神が定められたものではなく、自分が決めたものを忌避して自己満足するのだ。
キリスト教とは言っても、基準が神の言葉にないものは、いかに敬虔そうに見えても、実は悪霊の教えなのである。
なんと私がいつも言っていることではないですか。が、彼の言う「神の法(Law)」とは「超民俗化されてヴァージョンアップしたモーセ律法」なのです。対して私は、モーセ律法はレビ系の祭司制度と共に廃止され、いまやメルキゼデク系祭司制度が導入され、いのちの力によって立てられた大祭司キリストの御霊による「いのちの御霊の法則(Law)」だ、と言い続けているわけです。もちろんそれはモーセ律法の内実を無効にしません。むしろいのちの御霊に従うとき、私たちはモーセ律法をまっとうするのですから。それはWinodwsの中にMS-DOSが包含されているのと同様です。WindowsがあればMS-DOSは不要でしょう?Am I right?
私は「再建主義」自体には危険な要素を感じていますが、富井氏自身にはある種の評価をおいております。彼とはいつの日か、ただ主にある兄弟として「主義」を超えた交わりができることを願っているものです。
追記:彼の懸念する傾向はウォッチマン・ニーなどにも見られます。
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