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楽しむ

気持ちのイイ走りができました。これからが楽しみの本番です。

さて、実に面白い記事です。かの再建主義の富井氏がこう書いておられる:

形を整えることによって、自分が信仰を深めたような、神に近づいたような気持ちになるから。
私は、ロヨラや、ケンピス、ジョン・ウェスレーに同じものを感じる。
敬虔さを強調し、生活の聖さについて多くのことを語るが、信仰義認が出てこない。
自分の内面への洞察は出てくるが、イエスによって罪赦されたことの喜びについての言及が少ないかまったくない。
ずれているのだ。焦点がイエスではなく、自分に向いている。
こういう伝統が西洋のキリスト教にあるのだ。我々は、注意しなければならない。
この世界に存在するものは、「楽しむために」あるのだ。

だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ65・18)

自分から進んで苦難に向かうとか、苦しみを愛するとか、そういったマゾヒズムが、ヨーロッパ流のキリスト教にはある。
これは、ひとえに神の法から離れたからだ。
基準が自分の目、思想にあるからだ。
だから、神が定められたものではなく、自分が決めたものを忌避して自己満足するのだ。
キリスト教とは言っても、基準が神の言葉にないものは、いかに敬虔そうに見えても、実は悪霊の教えなのである。

なんと私がいつも言っていることではないですか。が、彼の言う「神の法(Law)」とは「超民俗化されてヴァージョンアップしたモーセ律法」なのです。対して私は、モーセ律法はレビ系の祭司制度と共に廃止され、いまやメルキゼデク系祭司制度が導入され、いのちの力によって立てられた大祭司キリストの御霊による「いのちの御霊の法則(Law)」だ、と言い続けているわけです。もちろんそれはモーセ律法の内実を無効にしません。むしろいのちの御霊に従うとき、私たちはモーセ律法をまっとうするのですから。それはWinodwsの中にMS-DOSが包含されているのと同様です。WindowsがあればMS-DOSは不要でしょう?Am I right?

私は「再建主義」自体には危険な要素を感じていますが、富井氏自身にはある種の評価をおいております。彼とはいつの日か、ただ主にある兄弟として「主義」を超えた交わりができることを願っているものです。

追記:彼の懸念する傾向はウォッチマン・ニーなどにも見られます。

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  • 2009/11/15 17:43
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Luke

そうですね、彼は私のことをカルトだと断罪しているのですが、私的にはそう信じてあげたいと思っています。

  • 2009/11/15 18:34
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HN考え中

Luke氏
>追記:彼の懸念する傾向はウォッチマン・ニーなどにも見られます。
富井氏の記述(Luke氏の共通指摘事項)
>焦点がイエスではなく自分に向いている(のが問題)
>この世界に存在するものは、「楽しむために」ある
(質問)
ニーの著作は「キリスト者の標準」のみの読者です。
読み進めていく中で、最終章「福音の目的」の段階で、直感的に受け入れがたく感じた者です。なにか昨今話題になる収奪カルト系教会の説教の材料に使われそうな危惧を感じたからなのです。
さて・この「最終章」と「Luke氏の追記」、「富井氏の上記記述」とは関連があるのでしょうか。

当方は主が満足される奉仕は隣人への奉仕ではないかと思う者です。(個人的には労働提供や慈善団体への寄付金など。ただし自家の生活を維持し楽しみつつ出来る範囲)
以上 よろしくお願いします。

  • 2009/11/15 21:54
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Luke

そうですね、その傾向とは、主の成し遂げられた事実に立つことから、自分の内面や自分の聖性や霊性を追求することに落ちる傾向です。ニーも完全主義者(強迫性)の典型的な部分があります。主の事実に任せるならば、もっとまったりした感じや伸びやかさが醸されるのです。

また自分をムダに注ぎ出すこと。つまり高価な壷を割ってナルドの香油を注ぎ出すことが究極の福音であること。これは一歩誤まって、他者にそれを要求するならば、おっしゃるとおりになるでしょう。

が、信仰の究極はセルフかキリストの選択になります。殉教などもこの文脈の中であり得るわけです。それを他者に要求するのではなく、自分に適用できるかどうか。動機はマリアのように主に対する愛ですが。

主は、ヨハネのことを詮索するペテロに、「ヨハネのことではなく、あなたはわたしに従え」と言われたのです。その究極にペテロの逆さ十字架があるわけです。この意味で、主ご自身と私の関係が問われるわけです。

いわゆる隣人に対する奉仕などはこの関係の中から生まれないと、いわゆる宗教行為になる危険があるでしょうね。行いの伴わない信仰は死んだものですが、信仰によらないことはすべて罪です。大切なのは愛を通して働く信仰だ、とあるとおりです。

  • 2009/11/15 23:24
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HN考え中

(追伸)
当方の上記コメントは、何かの機会に、同じような話題・テーマのブログ記事を掲載するときにでも、触れて頂ければ幸いです。可能でしたらで結構ですのでよろしく。
 この書き込みへ直接のお答えは求めておりませんので、よろしくお願いします。・・まあこんな感じ方あるのかな位におとどめくださいませ。

  • 2009/11/15 23:36
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HN考え中

★早速のご回答感謝します。

>ニーも完全主義者(強迫性)の典型的な部分があります。主の事実に任せるならば、もっとまったりした感じや伸びやかさが醸されるのです。
>いわゆる隣人に対する奉仕などはこの関係の中から生まれないと、いわゆる宗教行為になる危険があるでしょうね。行いの伴わない信仰は死んだものですが、信仰によらないことはすべて罪です。大切なのは愛を通して働く信仰だ、とあるとおりです。

★なるほど脅迫性(いわゆる完璧主義、生真面目だったんですね)。
まったりが一番です。周りの人が安息できますから。
聖職者もまったりしている方がいいですね。

★奉仕は義務ではなく、「喜んで」かつ「おのおの分に応じて」ですよね。・・ノルマではなく。
ある教会では、引っ越してきて初訪問する信徒に、いきなり何の奉仕ができるかと切り出しているのを見てあきれてしまい、タイミングを見て逃げだしました。・・今は、まったりと安息していますよ。他の信徒(婆ちゃんたち)といっしょに、純朴に(笑)。・・おやすみなさい(安眠)

  • 2009/11/16 01:14
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  • 2009/11/16 16:44
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