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信仰の本質

最近、何度も繰り返しているが、信仰とは願うことのサブスタンスとその立証(Heb 11:1)。けっしてオツムの中で「使徒信条を信じます、信じます」とやることではない。サブスタンスを得たらそれで終わり。Dr.Kさんがこの部分を強調されている

Reckoning(徹底的にかつ完璧に理解する)とは、「信じる」ことではない。

ポケットに12シリングあれば、12シリングと記帳すること。これだけ。12シリングというサブスタンスをそのまま受け止めて立証することだ。オツムでいくら強く念じても12シリングは15シリングにはならない。信仰はサブスタンスをそのまま見て、受け取るのみ。実に単純なのだ。

現在、NTTサーバーの仕様変更により、記事の投稿ができない状態となっております。そこでここはそのまま残して、引越しを致します。まだ整っていませんが、おいおい、です。よろしくお願いします。

新しいブログ⇒DR.LUKE'S iDLE UTTERANCE

クリスチャンのスペクトル

ここでいろいろなミニストリーを紹介しているが、そのスペクトル(多様性・広がり)は実に興味深い。ここでアメリカの代表的な3名を改めてCLIPしておこう。

●Bill Johnson

●Joel Osteen

●Paul Washer

極私的には、この3人、はたして誰が神の地上における御心を、今、この時に、行っているのだろうか?天に御心がなるとおり、地にもなるとは?このテーマにどう答えるかがすべてであると感じている次第*1。あなたはどう答えますか?

*1:この「主の祈り」の意味、単純なようで、実はきわめて深いと思う昨今だ。現代のクリスチャンは、「自分の目に正しいと見える道」をそれぞれが歩んでいるのが偽らざる霊的状況。私もそうだったし、今もそうかもしれない。が、それはもう十分だ。大石内蔵助ではないが、十分に世は楽しんだ。彼の「思いははるる」は単に主君の無念を晴らしたことだけではないと思う。彼はもう地上に思い残すことはなかったのだ。私も主の再臨が迫っていることを思いつつ、自分がどう生きるのか、改めて自分に問い直す必要を覚えているところなのだ。それが地上をいかに去るかという究極的問いになるわけ。

40年間の彷徨

出エジプトした後のイスラエル。たった1週間の道を40年間彷徨った。ついに良き地に入れた当初の者はヨシュアとカレブのふたり。みな途上でつぶやき、次々に荒野に屍と化した。今のキリスト教を見ているとまことにこの光景が思い浮かぶ。聖書の啓示の本質は実に単純。アダムにある私が死んで、キリストにある私が復活し、新しい創造とされた。That's IT!!!

良き地は乳と蜜の流れる地、あらゆる良き物を産出し、私たちを飽かしてくださる。この地にあって神の資源を楽しむこと。これがクリスチャンのライフ。これはすべて信仰による。実に単純。まことに

神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。-Heb 3:17-19

New Man Thinking

なんと気持ちのいい朝だ。爽快な空気の中、桜の花びらの絨毯を走ってきた。

さて、最近FBでフォローしているGraham Cookeの言にまことに鋭い指摘があった。

"Whatever you focus on, you empower. So all the time we are talking about the old nature and trying to change people's behavior, then we are giving life to something that Jesus has already killed."

From THE PORTLAND SESSIONS: SCHOOL OF PROPHECY

一応訳しておくと、

「何でもあなたが注意を置けば、それは力を得る。だから、常に古い性質を語り続け、人々の行動を変化させようとするならば、すでにイエスが殺してしまった存在にいのちを与えてしまうことになる。」

まことに至言。自分は罪ゆるされた罪人に過ぎません;もっと自分の罪深さを探ります;もっともっと肉の性質が十字架で砕かれる必要があります・・・。あたかもそれは敬虔であるようだが、実は自己欺瞞だ。あるいは自分の病気であることに安住し、イエスは病者を招くために来られたと、それを正当化する。三浦綾子メンタリティーだ。それは亡霊を蘇らせることだ。

さらにCookeは言う:

"Our perception of something can put our thinking into a place where we can't have a breakthrough. Only the new man thinking can cause us to encounter the Lord effectively, and if our thinking is still a stronghold for the enemy, how do we take it down and experience the mind of Christ? Transformation comes when our current thinking is consistently and powerfully changed by the Holy Spirit."

From MIND OF A SAINT

「私たちが何か意識すると、思いを自分ではブレクスルーできないところに置くことになる。ただ新しい人の思いのみが主と効果的な出会いをなし得る。またもし私たちの思いが敵の要塞であるならば、どうやってそれを落とし、キリストの思いを経験できるだろうか?私たちの今の考え方が聖霊によって絶えずまた力強く変えられる時、トランスフォーメーションが起こるのだ。」

アダムにある私は死んだ。今やニュークリーチャー。キリストにあって造られた神の傑作なのだ。

For we are his workmanship, created in Christ Jesus-Eph 2:10

ニュークリーチャーとか、繁栄とか、癒しとか、こういった単語によって神に期待が高まり、大いなる喜びを覚えるならば、霊的に健やかだ。が、何か反論したくなったり、抵抗を感じたり、認めたくない印象があったりするならば、それはマインドの中に敵の要塞がある証拠かもしれない。自己憐憫や恨み、裏切られた傷などの形で。神の言葉に同意できない要素をマインドから駆逐すること。神に同意しなければ、敵の偽りに同意するのだから。

トランスフォーメーションは栄光にあって

先の三浦綾子の文章について*1、すでに「心の貧しい者たち」の誤訳でその後をあえて論じるまでもないが、はっきり言う。偽りである!パウロは苦難について何といっているか。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。-Phil 4:12

彼は環境や状況の犠牲者(Victim)ではない、それらを支配したのだ、つまり勝利者(Victor)として。彼はよく肉体のトゲ、つまり病気を抱えていたと言われる。が、病気ではない!聖書は聖書で解釈する必要がある。トゲはサタンの使いだ。それは彼の働きを阻害する存在なのだ。前にも書いたが、彼は直後にこう言っている:

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。-2Cor 12:10

キーワードは「キリストのために」だ。ここに病気はリストされていない。もし「弱さ」が病気であるならば、キリストのために病気に甘んじている?・・・意味不明だ。人はいわゆる病気や苦難において造り変えられるのではない。これは三浦綾子文学の世界だ。パウロは言っている:

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:17-18

栄光の中でトランスフォーメーションは起こる*2。栄光は前に書いたが、Kavod。すなわち「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

主の十字架は主の栄光だった(John 7:39)。神のみわざはすべて栄光の中でなされる。栄光の雲が臨むとき、それは私たちに主の臨在を経験させる。旧約の祭司たちのように立っていることができなくなる(1Kings 8:11)。その臨在のエクスタシーの中で、我を忘れ、聖霊が自由に働かれるとき、自然と癒しも起きているのだ。造り変えも、癒しも、すべてはこの臨在の雲、栄光の中の現象なのだ。どこに自分の信仰がどうのこうのと主張する余地があろうか。自分は消えるのだから。

*1:自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。
*2:マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は"episkiazo?"、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡なのだ。

信仰の分け前

午後はGYMにてボディのメンテを。雨でジクジクだが、やはりボディを追い込むことは気持ちいい。

さて、癒しとか繁栄について触れると、なぜか微妙な反応が出る傾向がある。ある人は、信仰によって癒しがなされると書いたところ、異議を申し上げるとして、癒されない人が信仰がないような書き方はけしからんとのこと。繁栄も多分同じような心理によって反対意見が出るのだろう。彼らは言う、現実を見てみよ、クリスチャンでも癒されない人や悲惨な生活をしている人はごまんといるではないか。彼らは皆信仰がないということなのか、と。ちなみにニッポンキリスト教のスタンダードとも言える三浦綾子によるクリスチャン像がこれらの反対意見に組みしていると思う。

心の貧しい人たちは、幸いである。(←これがそもそも誤訳!霊の空っぽの人だ)
天国は彼らのものである。
(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)

 心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。        
(三浦綾子・新約聖書入門より)

実はこういった人が謙遜であるとは限らない。現実は逆なのだ。福祉の現場とかを見れば明らかだ。

なぜ癒される人と癒されない人がいるのか、私は分からない。Joelも分からないと証言している。事実彼の父親は長年の高血圧で腎臓を患っており、最期は心臓発作で逝った。しかし母親は末期ガンをきれいに癒されている。信仰があれば癒される、これは真理だ。しかしその信仰は自分で絞り出すようなものではない。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。-Rom 12:3

この「量り」とは"metron",Strongによれば"An apparently primary word; a measure (?metre?), literally or figuratively; by implication a limited portion (degree): - measure."あえて言えば、「分け前」が適切だろう。信仰は自分由来ではない。癒されない人は信仰がないのか、という人は、実は自分由来の"信仰"を頼みとしているのだ。だから信仰がないと暗に指摘されていると感じて勝手に傷つくのだ。誰もそんなことは言っていないし、信仰は分け前だから、自分が誇るものでもない。

聖霊によって分け前として分配された信仰をみんな持っている。それをどう活用するかは、それぞれの信仰の成長の度合いによって異なるだろう。信仰を活用できる人もいれば、無駄にする人もいる。その差はあるだろう。分かち与えられた信仰がある形を構成するようになるとき、それはサブスタンスとして、その時での固有の信仰として生きる。これが癒しの信仰であったり、必要の満たしの信仰であったりするのだ。この点、イエスは信仰を実に自由に活用できたのだ。

癒されない時はどうするか。ある人が言っていた。プランBはないと。神の言葉はあくまでも真理。信仰があれば癒されるのだ。ゆえに自分の経験や感じ方を否んで(これが自分の十字架を取ることだ)、主の前に出て、主のタッチを受ける。私たちが変えられるべきであって、御言葉を変えるのでは断じてない!ここにマインドのトランスフォーメーションがなされる。肉の思いは神に敵対する。それでどうして癒していただけるだろうか。悔い改めとは罪の白状することだけではない。マインドが深いレベルまで御言葉に従って造り変えられることなのだ。十字架により自分を否むとはこのことである。

「繁栄の神学」ってなんだろう?

Joel Osteenをはじめとするいゆわる"Word of Faith (WoF)"運動についてはかなり批判や非難があるようだ。異端だとか、カルトだとか、さらにはニューエイジだとか・・・。特にその中の「繁栄の神学」と称される分野はかなりエキセントリックな反対がある。正直に言えば、極私的にはなぜなのか、ちょっと理解しかねている部分があるのだ。彼らに言わせるとこれらの御言葉は何を意味し、どう理解するのであろうか?

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

愛する者よ。あなたが、たましいが栄えているようにすべての点でも栄え、また健康であるように祈ります。

私の理解するレーマとロゴスの違いや、信仰の定義についてはすでに書いているが、信仰とはサブスタンスとその現れ、それは語り出された言葉、レーマによること、言葉には力があること、罪の赦しも病の癒しも十字架の中に含まれていること、もちろん必要の満たしも・・・。イエスはすべての病気を癒し、欠乏していたパンを増やし、人々を満腹させたこと。イエスは御父の完全なる表現であり、御父の意志を100%行ったこと、彼の語った言葉は御父の言葉であったこと・・・。

つまり御父の御心は人間のあらゆる罪を赦し、病を癒し、必要を満たし、健康を与え、あらゆる面で豊かに飽かせて下さることであると分かるのだが・・・。極私的には、これらの御言葉をアレコレこねくり回さず、単純に同意して、感謝しつつ受け取るだけなのだ。なぜなら、尊い御子イエスの血がすでに流されているからだ!

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。-Ps 103:1-5

追記:参考までにOsteenを偽預言者と糾弾するビデオを貼っておきます。

見る・思う・その結果

私たちが何気に行うこの行為。実はこれが人生を決める。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。-Gen 3:6

エバは、見た、思った、そして食べたのだ。これが人類の罪の原点。そこから死とすべての悪と悲劇が侵入し、人類を罪の中に閉じ込めた。私たちが見ること、思うことは、そのとおりに実現する。ポイントは同意の有無。エバはその木の魅力に同意した。ゆえに行動を起こした。私たちのビジョンとマインドのパワーはまことに運命を支配する。どんなビジョンを持ち、何をマインドに浮かばせるか。同意とともに思ったことは必ずなるのだ。

私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ・・・2Cor 10:5

人間の悲惨はどこから来るか。たいてい、ある時にサタンの偽りに同意している。自分は病弱だ、同意。するとそうなる。自分は貧しい、同意。するとそうなる。自分の家庭は不幸だ、同意。するとそうなる。自分は大したことない存在、同意。するとそうなる。神は私たちの幸福と健やかさを願っておられる。エデンの園におけるように、ご自身の保護と満たしによって生きることを願われる。なぜ、あえて病気や貧困に人を閉じ込めることがあろうか。現在の地上の縞模様の様はサタンの横奪の結果なのだ。人々がサタンの偽りに同意し、受け入れているからだ。神の責任ではない。

御言葉は言う:

・私たちは天地を造られた神の子である。
・私たちはキリストと共に死んで復活し、新創造とされている。
・私たちは恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする霊を受けた。

そう言われても、今の自分を見ると・・・という人は取り残される。セルフ・フォーカスの姿勢は神の真理を拒絶する。なぜなら肉の思いは神に敵対するからだ(Rom 8:7)。私たちはサタンの中傷や告発を拒絶し、これらの真理に意志を用いて同意するのだ。これらの御言葉を常に見つめ、思うこと。すると信仰が生まれ、それを語ること。するとサブスタンスがこの世界に現出するのだ。

病気の人に同情(sympathy)してはならない。貧困にあえぐ人に同情してはならない。運命を恨む人に同情してはならない。同情はその人のアイデンティティーをその状況によって肯定し、そこに固定してしまう。サタンの偽りの中に置き去りにするのだ。イエスは決して弱者や病者に同情しなかった。彼は彼らをあわれんだのだ(compassion)。日本語ではこの区別が曖昧だが、あわれみはその状況にある彼らを肯定しない。罪の赦し、病の癒し、必要の満たし、豊かないのちと生活、キングダム・ライフにある真のアイデンティティーへと彼らを引き出し、そこに確立するのだ。

イエスは盲人に「かわいそう」とは決して言わなかった。泥を目に塗り、シロアムの池に行けと命じたのだ。まだ目は開いてないのに!イエスはすでに彼の目が開くのを霊で見て、思った。そして信じて、語ったのだ。サブスタンスを明確にとらえていた。何を見るのか。目の前の物理的状況か、霊の世界のサブスタンスか。そのどちらを思うのか。思えばその結果をいずれ得るのだ。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。-2Cor 4:18

Joel Osteenの秘密

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彼については、かつて私は批判的であった*1。いわゆるNWRとの関係なども指摘した。が、最近、彼のメッセージについては単純に評価するようになった。批判者たちはキャンディ・メッセージと非難するが、いやいや、2万人を相手に毎週メッセージをすることの重さを考えてみて欲しい。30分間で2万人のマインドをとらえるのだ。

そこで極私的には彼がどんな生活をしているか興味を持ったが、ちょうどインタビュークリップを見つけた。これによると、彼の生活はきわめてシンプル。基本は家族と過ごす。筋トレなども行いつつ、水曜日から土曜日まではメッセージの作成と記憶に費やすと・・・。やはりきちんとした原稿をつくり、それを記憶しているのだ。これを毎週行う霊的・精神的労力は相当のものがある

人は何を求めているのか。単純だ。ハッピーになること。神は何を求めているのか。人のうちにキリストができること、つまりメタモルフォーゼだ。人生にはビハインドとアゲインストの風が吹く。神よ、何ゆえに!と叫ぶこともある。Joelはそのような人々の叫びに聖書から回答を与えている。基本はGOD IS GOOD。神があえて病気や貧困を送って人を訓練するといったサディストではないこと。自我を砕きぃ~といった十字架教でもないこと。神に期待し、信仰をおいたときに、神は私たちを失望させることはないこと。このようなエンカレッジを与えていることは間違いない。

*1:理由は、私が影響を受けてきたウォッチマン・ニー的霊性とは真逆だからだろう。彼は貧困と病苦と幽閉、そして殉教の人生を送ったのだ。そこに私は大いなる魅力を覚えていたのだから。が、普通の人からするとある意味息が詰まってしまう人生ではある。対するJoelはいかにも米国的な明るすぎる笑顔。ハッピーを絵に書いたような家族とリッチな生活。胡散臭いと感じていたが、これも敗戦国のコンプレックスがなせるわざかもだ・・・。

神と同意する

私が最近強調しているニュー・クリーチャー。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実。これって、けっこう抵抗があるようだ。いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか?私たちは罪ゆるされた単なる罪人*1。だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。メッセでも語ったが、神とともに歩むためにはまず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は神と同意してしない。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。Do you agree?

追記:サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。私たちが何に、あるいは誰に同意するか。これがマインドにおけるバトルの本質なのだ。メッセでも語ったが、私たちは門を出入りするが、それはマインドを通してなのだ。

*1:メッセでも指摘したが、こう言っておくことは保険なのだ。see?

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコブ1:22)。

 しばしば牧師や宣教師たちが罪を指摘しつつ、自分がそれを犯しているケースを聞きます。全国的に有名なクリスチャンの理想的人物が、隠された不道徳な生活を暴露されたりもしています。私たち神の言葉を与っている者たちは、まずこのことを最優先する必要があります。私たちはメッセージを準備するときには神のみ前で膝をかがめ、「神よ、この御言葉は私の生活において実際となっているでしょうか」と問うのです。そうでなければ、聴衆に対して、「私はこの点で模範でありたいと願いますが、まだ成長過程にあるのです」と言うべきでしょう。御言葉が自分にとって実際となっていないのにそれを宣言することは偽りを語ることです。
 御言葉を受け取る私たち自身もそれを行わなければ、自己欺瞞を犯すことになります。私たちは説教や講義を聴いて、「わお、なんという偉大な真理だ!」と言って、それを自分で実行したり、生活に適用することなく人と分かち合うのです。ヤコブは御言葉を聞いて行わない者は自分を欺いていると言います。
 私たちはどうして自分が御言葉にふさわしくない事実を認めることができないのでしょうか?それは私たちが完全癖コンプレックスを持っているからです。私たちは自分が完全であり、それ以下であってはならないと感じているのです。しかし、私たちは模範にはなれません。なぜなら私たちは不完全だからです。私たちは成長の模範となれるのです。私たちの周りの人々は私たちが成長過程にある存在だと認める必要があります。私たちは成功とともに、失敗もどのように処理するかを彼らに示すのです。私たちがクリスチャン・コミュニティにおいてこのように振舞うならば、敵に足がかりを与える可能性を著しく低くすることでしょう。

 主よ、私があなたと御言葉にあって成長することよりも、地的な完全を求めてしまうことをゆるしてください。今日、私があなたのいのちにより成長することの模範を示せますように。

※このシリーズは1月の分にて休載いたします。

TODAY'S CELEBRATION 【Apr 12, 2015】

UPしました。

タイトルメディテーションによるマインドのパワー

聖書箇所:アモス3:3;創世記11:6;ヨシュア1:7など

4月19日のセレブ

 ・場所:横浜技能文化会館(特別会議室)
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

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