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サンダー・シングのことば

愛知県のさっちゃんがご紹介して下さっています。不思議ですね、西洋キリスト教ではまず聞くことができない、深い安堵を覚えることばです。ちょっと転載を・・・(さっちゃん、よろしく)

神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。

わたしはどこの教派にも属さない。わたしはただのクリスチャンである。教派主義が争い事を呼ぶ。

キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。

福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。

われわれは罪深い世界に生きているが、それでも、心にイエスを持てば罪に汚されずに済む。それは、塩水の中に住む魚が、塩化しないのと同じである。それは生命を持っているからである。そのようにわれわれが、主から生命を受けていれば、この世にあっても、この世のものではない。この世ばかりか、天においてもわれわれは主の中に自分を見る。

今われわれは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

 神の化肉について

かつて、ヒマラヤ山中にいた時、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れるところではなかった。どうしたものかと考えていた時、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。

「向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです。」すると彼は、「心配ない。空気が向こう岸につれてってくれるさ」と答えたので、私はびっくりした。空気を吸うことは出来るが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸にいけるわけでもない。すると相手は獣皮をとりだして、空気をそこに吹き込み、ゴムボートにしてそれに乗れと命じたのである。こうして私は安全に向こう岸に辿りつけた。空気は皮の中に閉じ込められることによってのみ、私を運ぶことができた。

同じく、神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。

「わたしを見たものは、すなわち父をみたのである。」われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです。

ただのクリスチャン」-実にいいことばです。

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