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エクレシアの内と外

今朝も4.2キロ、300Calの消費。iPod+Nikeのおかげでラップが上がってきた。いつも思うのだが、42キロを走る時のマラソンランナーはその2時間ちょっとの間、何を考えているのだろうか、と。私などは思いがあちこちに彷徨いつつ、ようやくiPodのPower Musicにより集中できるのだ。マラソンのつらさは、身体面よりメンタル面にあると思うのだが、どうなのだろうか?これは登山も同じだ。かつて富士登山にチャレンジした時も、ひたすらメンタルをどうキープするかがつらかったと記憶している。ちなみに30台には筋トレやジョッギングの際はロッキーやトップガンでガンガンやっていたが、最近はややテンションを落としているところ・・・。

さて、本論。再建主義の富井氏の思想と私のそれはかなりかぶっていること、特に社会や政治・経済に対する見方はきわめて似ていることは、ここの読者諸氏にはお分かりと思う。しかしながら、モーセ律法の取り扱いは致命的に異なっている。私はモーセ律法は不備(i.e.いのちを与えないこと-Gal 3:21)があるゆえに廃棄され(Heb 7:11-15)、その上位互換ヴァージョンであるいのちの御霊の法則が導入されたと言っている。ゆえに御霊により生きるならば、自動的にモーセ律法は満たされると聖書に書いてある(Rom 8:4)。

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今回、富井氏は新約と旧約を混同するなと書いておられる

旧約のシステムと新約のそれとを混同してはならない。
今でもエルサレムに神殿を建てようとする人々がいる。
新約時代に、神殿は「クリスチャンの体」である。
クリスチャンの体は、神の霊が宿るところ。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

イエスは、神殿を三日で建てると言われた。
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2・19)
これはもちろん「復活の御体」である。
つまり、神殿は、イエスの復活の体になった。
そして、クリスチャンは契約によって一体であるから、われわれの体も神殿である。
だから、新約時代において、石づくりの神殿など不要なのだ。
石づくりの神殿をエルサレムに建てることは、イエスが再建された神殿を否定することになる。

あるいは、また、現イスラエルがクリスチャンによるものではなく、イルミナティによるものだからフェイクと言われているわけだが、ここがよく分からなかった。極私的には、別に、イルミナティが作ろうと、また彼らが神殿を再建して、旧約の儀式を再開しようとなんら問題ではないのだ。なぜならそれはエクレシアの外の事象だから*1。神は現在、いのちの御霊の法則をエクレシアの領域において、働かせている。もちろん一般恩恵としての聖霊の照明、すなわち世に対して、罪と義と裁きを証する働き(John 16:8)はすべての領域にあるが(だからこそ私ですらも救われたわけだが)、それに応えた者だけがエクレシアの領域に生きるのだ。しかし再建主義ではこの線引きが欠如していることに今回気が付いた。だからイルミナティによるイスラエルはフェイクであり、神殿も再建されるべきではないのだ!

これはいわゆる万民救済説の人々が言う、全宇宙はキリストの体であり、すべての人が、信仰の有無や相違によらず救われているとするのと似ている*2。しかし現経綸では、神は明らかにエクレシアの領域とそれ以外の線引きを設けられている。キリストとベリアルと何の関わりがあるか、救われる者と滅びる者の間には致命的なギャップがあるのだ。これは厳粛な事実であり、これを曖昧にするならば、キリストの十字架と血潮を侮る偽りの"福音"を告げ、人々を滅びへと招く重大な罪である。もちろん神の主権は全宇宙に及んでいる。サタンですらも!法的にはキリストが天と地のあらゆる権威を帯びた宇宙の主権者である。が、重大な相違は、キリストの頭主権に服するエクレシアにおいては、神は復活のいのちによる直接統治をされるが、その外では復活のいのちはなく間接統治である。これは富井氏も言われている。

ここで問題となるのは、現経綸では私たちの霊は再生された新創造であるが(Gal 6:15-16)、体は依然として旧創造にのものだ。だから私たちは、特に大脳辺縁系の影響を受けてもろもろ葛藤する。パウロですらこの幕屋の中で呻いて、これを脱ぎ捨てたいと叫んでいるほどだ(2Cor 5:2)。況や、世俗にまみれた小市民Dr.Lukeにおいてを也、である。今の経綸を終わらせて、主が来られるとき、私たちの体は瞬時に栄光の復活の体に変えられる(1Cor 15:52)。ここから文字通りの千年期へと入るのだ。そこはすべての領域でキリストの直接統治が行われる。その時の私たちの復活の体は、罪を犯さない体ではなく、罪が宿っていない、罪を知らない体である。これが神の子の出現であり、私たちの栄光の望み、全被造物ですらうめきをもってその時を待ち望んでいるのだ(Rom 8:22-24)。

再建主義の問題点のひとつとして、この現在の私たちの体に対する理解と取扱いがずれているようだ。ここでも人が霊・魂(知・情・意)・体の三部構成であること、神の救いのプロセスは、エクレシアにあっては<霊の再生(すでに)→魂の再構成(進行中)→体の変貌(未来)>を認めないと、それこそキリストとベリアル、旧約と新約をごちゃ混ぜにする誤謬に陥るのだ。そこでいわゆる福音とは、霊の死んだ人をして、霊を生かすことと言える。これは私たちの業ではなく、神の超自然的な仕事だ。神の国は神の霊から生まれた者だけが入り得るのだから(John 3:3)。それはすでにキリストにあって到来し、現在拡大しつつあり、いずれ完全に出現する。この三つの時制をわきまえないととんでもない混乱を引き起こすであろう。

参考:人間の聖書的啓示と現代精神科学

*1:ここで"エクレシア"とはいわゆるキリスト教界(会)とは必ずしも同義ではない。目に見える物理的教団や教派、あるいは組織や宗教法人などとはほとんど関わりがない。それは"キリストの奥義(Eph 3:4-6)"なのだから。
*2:富井氏がそれを採っているわけではない。彼は伝道により御国を拡大することを主張される。しかしその御国とは、彼の定義によれば、超民族化されたモーセ律法の適用される領域に他ならない。私的には復活のいのちの領域、すなわちいのちの御霊の法則が支配する領域と言いたいところ。

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