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ハードコアへの回帰

「8時だヨ。神さま、仏さま!」なるネット番組が好評だと、今朝の日経紙。住職、神職、牧師がくだけたやり取りで、バラエティー番組よろしくそれぞれの教えや体験を語るのだとか。要するにすべての宗教の目的はひとつ。例のパーパス・ドリブンのRick WarrenのChrislem(=Christian+Moslem)も同じ霊が働いているが、いわゆる宗教はひとつ;神に至る道はいろいろだ;「救いの名はイエスのみ」などは排他的原理主義カルト;聖書信仰が戦争や争いの原因である;すべての人はすでに救われている;伝道とはすでに救われていることを自覚させることだ;地獄は存在しない、神の裁きもない・・・BlaBlaBla。
続き
ローマ法王おフランシス様もホモに膝をかがめ、モスレムもクリスチャンも同じ神を信じる兄弟であると認知し、いわゆるエキュメニカルの動きを進めている。これはもちろんNWOへの道備えであるが、この世の動きは政治経済的にも霊的にもひとつの点に収束しつつある。それは、神がバベルの塔で分散させた人類を、キリストの十字架を回避しつつ、ひとつにまとめる霊的ダイナミクスである。愛の下にある自由・平等・平和、それを担保するのが民主主義。それを金科玉条としてNWOへの流れが生まれ、強められている。おそらく人類はこの敵による欺瞞の流れに抗することはできない。彼らからすると、救いの名はイエスのみ、真の神はこの方のみ、などの偏狭かつ排他的な福音はその流れに抗するもの、むしろ排除さされるべきものなのだ。

実に不思議なこと。何故にここまでイエスの名を拒絶し、地獄や神の裁きを否定し、すべての人類がすでに救われているなどと言わなくてはならないのか?それは、実が自分自身が神の裁きや地獄の存在を知っているからなのだ。皆、分かっている。自分は罪を犯している、と。もし完全なる神の前に立てば、たちまち焼かれてしまうことも。彼らは自覚があり、そのことを恐れているのだ。だから、あえて否定したい。否、どうしてもしなくては今の自分の存在すら担保できないのだ。かくして聖書を人の書き物としてその権威を貶め、御言葉によるコンフロンテーションを回避する。あれこれの理屈や、神学までも総動員して・・・。

繰り返すが、彼らは知っているのだ。自分には罪があり、神の裁きに堪え得ないこと。裁かれるならば刑罰を受けること、を。なぜなら、人間には霊のなごり、良心があるからだ。主はそれゆえに自分を十字架で捧げて下さったのだ。真に十字架を知り、それに自分の根拠を置くのであれば、恐れる必要はなくなる。自己弁護も不要。自己正当化も不要。私たちは神の前にあって、自分の何かを一切当てにしない。この意味で、セルフに徹底的に絶望すること。絶望した者は幸いなのだ。そこには十字架のイエスがおられる故に。したがって自殺する者は、絶望のゆえに自殺するのではない。自分の何かを頼りにして、その自分に頼り切れないゆえに自己抹殺を図る。それはセルフ(自我)のプライドの裏返しなのだ。

この世も、キリスト教も、実は霊的には同質のもの。セルフを"神"とすることにおいて。真に自分を下した者は、御言葉に対してはただアーメン、平伏すのみだ。そしてそれがいかに甘く、幸いな経験であるか、それを知っている。この世も、キリスト教も、サタンの狡猾なトリックに絡め取られる。その現れがエキュメニカルとNWOの動きだ。私が10年以上も前に著した本の中で警鐘を発していた砂糖まぶしの福音は、見事に成長し、これらの終末的流れの中において結実しつつある。ニッポンキリスト教も欺瞞に飲み込まれる、否、すでにだ。

今こそ、ハードコアな福音を語る時期なのだ。すなわち、救いはイエスの名のみによる;神の前では救いを受ける者と滅びる者がある;人には一度死を経て、裁かれることが定められている;十字架の福音を受けるか否か、これが永遠を決める。これが神の真理だ。


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