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アダムはキリストの型

アダムはきたるべき方のひな型です。-Rom 5:14

釈迦はそもそも偶像礼拝を禁じていた。もちろん、自分を拝することをやだ。彼は涅槃経において「依法不依人(=法に依って人に依らざる)」と戒めている。法、すなわち法則によること。アダムにある世界は旧創造の法則-いわゆる物理化学などの法則もすべて含めて-によって秩序正しく運行している。神は無秩序の神ではなく、秩序の神、すなわち法則を定めた神である。釈迦も道元も白居易もこの法に気がついた。それは自分の意志の及ぶ領域を超えた宇宙の法である。つまり自分の自由意志の及ぶ世界と法則による世界を切り分けたのだ。クルシチャンはこの切り分けができていない。彼らはあたかも自分の髪を自分で引っ張って「主イエスの名によって飛べーっ!」とやるようなものだ。「あなたがは神の毛の一本も白くも黒くもできない」とイエスが言われるとおり、この点においては徹底的に絶望すべきである。その時、解放がもたらされる。

アダムは来たるべきお方キリストの型であり、アダムにある世界はすべてキリストにある世界の型でもある(→参考記事参照)。アダムにある世界が法則によって支配されているように、キリストにある世界も法則によって運営される。これがいのちの御霊の法則である。この意味で、昨日引用した『正法眼蔵生死-マイ・ヴァージョン』に救世軍の山谷少佐が「禅の真理契機を完成するキリスト」とコメントされているとおりである。かくして仏教もすでに釈迦の本来の教えから相当に離れた処に来ているのだ。檀家制度をもうけ、儀式や習俗による葬式仏教と堕している。実は福井の永平寺を訪ねた時、ビックリしたことがある。なんと曹洞宗本山たる永平寺にご本尊があったのだ!?「仏に会っては仏を切り、神に会っては神を切る」とする禅に礼拝対象たるご本尊が祀られている!?かくして現在の寺、たとえば奈良の大仏などは、エルサレムの聖誕生教会とまったく同じ臭いと雰囲気を醸しているのだ。同行したSalt氏がエルサレムは天理市と同じだと嘆いていたほど。

かくのごとく宗教に堕すれば、洋の東西を問わず、行き着くところはみな同じ。というわけで私にとっての寺や仏像は単なる一種の美術品に過ぎない。ある種の人々がするように仏像を破壊するまでもない。果たしてミロのビーナスを信仰ゆえに破壊する者がいるだろうか?私は前から何度も言っているが、肉に仕えることができない者は霊に仕えることもできない。なぜなら前者は後者の型だからだ。同様にアダムにあるものを楽しむことは、キリストにあるものを楽しむ型なのだ。エデンの園で「すべての木から思いのままに取って食べてよい」と言われた神の本意は、「その木々は型であって、そのリアリティはいのちの木なのだよ」だっと思われる。神はアダムがこの木(THE TREE)から取って食べることを願っていたのだ。が、善悪の木の実を優先してしまった。あらゆる宗教、仏教もキリスト教もみなこの善悪の木をルーツとする。ゆえに同じものになるのは当然なのだ。茶の湯が聖餐式由来とか、神社がユダヤ教由来とか、確かに知的興味の対象としては面白いがそれは本質ではない。本質はこの木、すなわちこの方(THE MAN)にあるのだから。

■参考:JAVAと信仰

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