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怨念の時代-半沢現象-

今朝は雨で走れず。ちょいとさみしい。そこで風呂に入って、30分ほど主と語りあう。最初は御名を呼び、いろいろ語るのだが、そのうちただ交わり自体が甘く、喜びになるのだ。ただ、ひたすら主と交わるだけ。この時間が至福の時間

さて、先の半沢現象、どうもニッポンは怨念の時代に入っているようだ。やられたらやり返す。しかも倍返し。その根拠は正義。正義による復讐。狡猾なサタンの手法だ。サタンは正義を主張したら実に輝くのだ。その復讐の手段としてネットはかっこうの場だ。ニッポンキリスト教とニッポン社会は合わせ鏡と何度も指摘しているが、まさにそのとおりであることは改めて言うまでもない。共に怨念の時代。

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これ実はきわめてヤバイ。なぜか。怨念を相手に向けることは実は自分を神の裁きの下に置くことだから。私なども10年以上にわたって粘着されているが、相手は勝手に御言葉を棄損し、自己正当化の偽りを唱え、どんどんと堕ちていく。その魂のエネルギーは恐るべきほどに膨大だ。人を憎しみ続けることって、膨大なエネルギーが要るのだ。かくして魂の強い者ほど自ら苦しむ。怨念を抱く者同士が共鳴現象を起こして、凝集し、そこにひとつの要塞ができる。もちろんサタンの要塞だ。苦々しい毒を発散するに至る。こうして社会や教会を汚す。これ、実は恐るべき罪なのだ。彼らは燃える炭火を自らの頭に積むことに気が付いていない。それは神の恵みからもれることだから。

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。-Heb 12:15

時が来るならば、サタンの要塞は裁きを受ける。しかもそれが巨大であればあるほど、その裁きは深い*1。自分のしてきた裁きがすべて自分に帰されるからだ。神はその者の基準でその者を裁く。特に憐れみを示さなかったものは憐れみを受けることなく裁かれる。

あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。-James 2:13

なんと恐るべきこと!それこそ自分のなした裁きの倍返しを受ける。逆に言えば、神の憐れみを受けて裁きを免れる鍵は、憐れみを示すことだ。自分が示した憐れみの倍返し、否、百倍返しを受ける。そもそも怨念を抱えたままの人生、楽しいだろうか?朝の爽やかな空気と光を満喫し、鳥のさえずりを味わい、漢詩を詠むことができるだろうか?真に豊かな暮らしが送れるだろうか?ああ、しかし、それは暗く、冷たく、刺々しく、自分と他者を汚しまた傷つけ、実に悲惨なものだ。対して、キリストにある自由を味わい、つねに主と語らい、主の慰めと励ましを受け、心がじわーーと甘くかつ温かくされ、じわじわと込み上げる生きている歓喜を享受することができる状態に自分を置くこと。自分の心を見張ること。何か"ひっかかり"があったら、ただちに主に告白し、血の適用を受けること。なぜなら-

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。-Prov 4:23

心-これは霊と魂の相互作用のあり方。特に大切なのは良心。良心を健康に保つこと。そのためには怨念を捨てること。つまり赦すこと、憐れみを示すことだ。そのときイエスの血の清めのパワーを味わうことだろう。罪定めの感覚からの解放だ。そして思い。思いが汚されるとエバのようにサタンの罠に落ちる。

しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。-1Cor 11:3

ただし、思いに浮かぶ一つひとつの想念を相手にしないように。それは所詮幻想、幻影、リアリティではない。無学祖元いわく「漠妄想」。それは個々の想いを相手にせず、流してしまうのだ。どんなに醜い想いが浮かんでも、イエスの血は絶えず私たちを清めるのだから。その血のパワーに信頼し安息すること。このとき内なるいのちを楽しむことができる。復活のキリストのいのちを享受しているか否か、それは鏡に向かって自分に問えばよろしい:

アー・ユー・ハッピー

では、本日もめいっぱいハッピーしましょう!

*1:ちなみに安倍さんの大ボラで五輪を招いたが、これによりニッポンは"3.11"を超える裁きを受けるだろう。安倍さんはとんでもないことをしてくれたものだ。

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