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絶聖棄智-老子

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 聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍す。
 仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復す。
 巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ることなし。
 この三者、もって文足らずと為す。
 故に属(つ)ぐ所あらしめん。
 素を見(あらわ)し樸(ぼく)を抱(いだ)き、
 私(わたくし)を少なくして欲を寡(すくな)くす。

老子は言う、聖を絶ち、智を棄てよ、と。同様に、仁を絶ち、正義を棄てれば、民は自ずと孝と慈に復するし、小賢しい小手先の業を絶ち、自分の利益を捨てれば、盗賊もいなくなると。素朴に戻り、切り出されたままの木のようであれば、自己も少なくなり、欲を抱くことも減るであろう。

最近、アメリカでも霊的に疲れ果てたクリスチャンが増加中らしい。そこでどうしたらよいのかと。そこで、「恵みに酔う(Get Drunk On Grace)」ことを追及し出したようだ。いわく「一方通行の神の愛(One Way Love)」を味わうためにとか。

愚かなものだ。かつては"WWJD(What Would Jesus Do)"とか、「ヤベツの祈り」だとか、まあ、いろいろ流行ったものだが、ついに消耗状態。不平不満、敵意と怒り、そしてビョウキで満ちたニッポンキリスト教の姿でもある。これは私の本でも予言しておいたことだ。こういったムーヴメントに乗せられるならば、必ず消耗すると。アレコレの小賢しい業がむしろ人を消耗させるのだ。主は言われた、野の百合を見よ、と。何もしていないではないか。それは与えられたいのちのまんまなのだ。老子もいのちの種類の相違はあるが、「まんま」を説いている。

聖となることや聖書の知識や何とかの方法、理想の教会を作ることや、立派なクリスチャンとなることなどを求める心そのものが善悪の知識の木の路線にあるのだ。鍵は聖・智・仁・義・巧・利をまず棄てること。これが十字架の自己(セルフ)の死。すると、すでにすべてを得ていることに気付くのだ。これがキリストと共なる復活、すなわちクリスチャンの「素朴=まんま」だ*1。この時、その豊かさと輝きが自然と溢れるのだ。

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。-2Peter 1:3

*1:いわゆる「ありのままでいい」なる教えは砂糖まぶしの偽り。十字架を経ない「ありのまま」は木・草・藁として神によって焼かれるであろう。

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