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絵画と音楽と数学と(Dr.Luke的芸術論)

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コロー展はよかった。初期の写実性を追及した(1)作品よりも中期以降の彼の自然の解釈(3)が入った作品の方が私の好みであるが、やはり光の描き方が鍵である。私たちは絵を描くとき、輪郭を"線"で描くが、元々そのような"線"は存在しない。それは脳が作り出したものに過ぎず、あるのは光だけ。レオナルド・ダ・ビンチは光で輪郭を表現する手法を編み出したが、コローも同じ手法を用いている。木の枝枝の描き方も経年的に変化している。また『真珠の女』はまさに彼のモナリザである(実は真珠は描かれていないのだ。額の飾りが真珠に見えたので、そう命名されたらしい)。

要するに初期風景画は割と単調であり、あまり面白みがないが、中期以降は、例えば周囲を鬱蒼と茂る森の木々の陰を描き込んで、その木立の切れ目に向かって光を描いて私たちの目を誘導し、最後の木立の切れ目に明るい光の向こうの広い空間をイメージさせると言った手法の絵が多い。彼自身も、「私はまず影の部分から描く。それは影こそが人の心を惹きつけるものであるから」と言っている。また作品全体がややアンニュイと言うか、メランコリックな感じがする。つまり欝系なのだ。その欝系の中に明るい部分を何か希望の光のような感じで描いている。

と・・・まあ、あまり能書きは書いても仕方ないわけで、ぜひご自分の目でご覧になることをお薦めする。実にリッチな時間を堪能できた。何か美味い食べ物を食べたような、充実感と言うか満足感を味えた。

さて、コローの『青いドレスの女』にしても、そのドレスの質感が実に真に迫るわけで、思わず惹き込まれる。私たちはこの質感をクオリアと称するが、絵画も、特にダ・ビンチやコローやターナーあたりは、このクロリアの表現をキャンバス上の絵の具で試みたと言えるかと思う。これが絵画の面白いところ。私たちは光でモノを見ているが、それを一旦絵の具に落とし、その絵の具で反射する光を見て、改めてそのクオリアを感じて、画家が得た感動を追体験しているわけ(3)。

絵画はもちろんリアリティそのものではない。が、そこに表現された「何か」は画家の内部で画家の情緒に触れたものであり(2)、さらに創作表現活動と言う過程を通して、情報処理され、ペインティングされたものだ。しかし、その「何か」は画家個人を超えてある種の普遍性を有しており、よって私ごときの心にも届くわけ。そこで画家の魂と私の魂が、時間と空間を越えて共鳴し、「何か」を共有する。それはある種の波動の共鳴とも言えよう。画家がその時に触れたリアリティによって、内なる感動の波動を得、それをキャンバスに表現することによって、そのメディアを通して、私の心に波動を生む(4)。写真はレンズに写るリアリティであるが、それでもカメラマンの心がその中にたたみ込まれる。絵画になるとそのたたみ込まれる要素がますます多くなる。その意味で絵画は見る者によって感じ方のスペクトルが広がる。これが絵画の魅力と言える。

そこでこの「何か」を共有し得ると言うことは、私の脳とコローの脳にある種のコモンな部分が存在することを意味する。そのコモンな部分が、絵画を媒体として同じ反応/活動をするゆえに、同じクオリアを生み、同じ感動を生み出す(まったく同じかどうかは証明できないが・・・)。実は、これは数学でも言えること。多変数複素関数論の岡潔は、「数学は情緒の満足である」と喝破した。公理論的に整然と組み立てられた数学は、論理的には誤りがなくとも、感動がない。しかし数学者が感動しつつ、その内面で経験した「何か」を数式によって表現し、それに触れた時、やはりこちらもその「何か」による感動を経験できる(2)。多分、この経験は絵画でも音楽でも同じものであろう(5)。

フィールズ賞を取った小平邦彦氏は、「数学は仏師が木の中に埋もれている仏像を掘り出すのと同じだ」と言っている。仏師にとっては、その木の中にア・プリオリに埋め込まれた仏像を発見し、無駄な部分を削いで行くだけなのだ。そこには自分の作為がない。人の作為があるものは醜悪である。数学も同じ。作為があると興醒めする。音楽も多分、何も意図せずにふと生み出された旋律がむしろ感動を生むのだろう。如何にも、と言った風な作品はしらけるだけだ。そのア・プリオリな像とは、多分神が埋め込んだのだ。

コローはいのちを表現したいと願っていたらしい。自然の前では自分などは無力の極みであるとし、自然と一体となる画風を目指した。このゆえか、何か癒しを味わうことができるのだ。自他の経験した「何か」の共有。それを提供し得る芸術家たち。その手法やテクニックを持つ彼らがうらやましいが、とりあえず私も受信者としては、その波動を享受することはできる。絵画もサイエンスも、それぞれ自然との関わりの一形態であり、信仰とは生ける神との関わりそのものなのだ。それを表現する者はそれなりの賜物を持つ者であるが、自然や神ご自身の波動を味わう事は誰でも可能なのだ。ポイントは誰にもよらず、自身の感性を大切にすることだ(3)。

【注】つらつらと思いつくままに感想を書いたが、下書きをして夕食を取り、お茶を飲みながらコローの解説本をぱらぱらしていたら、何と、上に書いたような事をコロー自身が語っているではないか。対応する箇所とコローの言葉を紹介したい。

(1)自然は永遠の美である。一度で作られたものはすべて、形態がより純粋でより気が利いていると私は気づいた・・・。われわれはどれほど自然に基づいて厳格でなくてはならず、急いで作ったクロッキーに満足してはいけないかも分かる。

(2)最初に感じた印象を決して失わずに・・・。芸術における美とは、われわれが自然の外観から受け取った印象の中に浸された真実である。どうということもない場所を見ていて私は胸を衝かれる。模倣を追及しているにもかかわらず、私は自分を捉えた感動を片時も失うことがない。現実は芸術の一部であり、感情は芸術を完全なものとする。

(3)いにしえの巨匠たち、あるいは同時代の巨匠たちから学んだことから完全に離れて、素朴さをもって、あなたの個人的な感情に従い、自然を解釈しなければならない。私は目も心も使って解釈する。

(4)私は自然の震えを描こうと努めている。私は自然のすべてのニュアンスをつかみとり、それによって生命のイリュージョンまでも生み出せるように絶えず努力している。私のカンバスを見た人が、それは動かぬものだが、描かれた物が動いているような印象をもってくれることを願う。

(5)絵を見る者の感性が絵と調和して振動するようにしなくてはならない。つまり「自然の形態の下に隠された感興」を描くこと。

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・・・芸術とは、自然そのものを描くことでなくてはならないが、とりわけ自然が内に隠すものと個々人がそこで発見するものとを描き出さなくてはならないのである。(ヴァンサン・ポマレッド)

(わが大学の同僚のレクチャーがあるようだ・・・)

参考

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