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一応護教論を

前回のメッセを聞かれた方から異議申し立てを受けた。いわく、「Dr.Lukeは奉仕も献金も徹夜祈祷も何もかもやらなくていいと教えている、けしからん」と。ふう、まあ、ニッポンキリスト教からこんなお言葉が出ることは想定内ではあるが、一応ご回答を・・・。

私が述べているのは、神によって罪(sins)を赦され、受け入れていただくためには、血潮に頼る以外、何もしなくてイイ、と申し上げている次第。根拠はただ一度イエスが流された血潮のみ。これで神は100%満足されているから。このことを知り、真に、オツムの知識によるだけではなく、心の底から赦されたことを実感すれば自ずと奉仕や献金や徹夜祈祷もしたくなるのがクリスチャンなのだ。

ところがこの順序を誤るのがニッポンキリスト教徒(=クルシチャン)だ。自分を神に売り込み、また人にアピールし、自分で自分のアイデンティティーを獲得しようとする。これで延々と自作自演の苦労物語に落ちるのだ。そしてその割礼の傷を誇る。あるいは、什一献金はカルト教会だとか、「与えよ、そうすれば与えられ、持っている者はますます豊かに、持たない者は・・・」に対しては、「繁栄の神学のカルトの教えだ、異端だ」とブツブツ言い出すわけ。嗚呼、まことに愚かなものだ。それは御言葉であり、主イエスのお言葉だ。これを自ら拒絶すれば自ずと貧困と悲惨を刈り取ることであろう、ということは一応指摘しておく。

私たちは神に赦され、受け入れられている(完了形)ゆえに、大いに捧げ、奉仕し、仕えるのだ。それは喜びだから。極私的な証をすると、30を越えた頃から年収二千万ちかく稼いでいたが、稼げば稼ぐほど不安が増し、常に攻め苛まれた時期があった。しかし、あるときチャレンジを受け、きっちりと什一献金を始めたところ*1、心が解放され、喜びに満ち、不安とか心配がまったく消えたのだ。ローンも、何度も書いているが、30そこそこで五千数百万抱えたが、これがまったく重くなくなった。その後、バブル崩壊でサンディエゴのオフィスビルがポシャったりもしたが、この時もまったく不安とか心配はなかった。そしてここまで生きてきている。これは実に不思議な経験だ。神はまことに真実な方。与えよ、そうすれば与えられる。これは真理である。ニッポンキリスト教徒よ、この真理を拒絶するならばご自由にどうぞ*2。かくして

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。-Matt 13:12

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。-2Cor 9:6

賛美も、証も、奉仕も、伝道も、みな同じ原則だ。徹夜祈祷も私も何度もしたことがあるが、それは大きな祝福であり、油塗りを受ける。イエスのことを証しすればするほどうれしくなる。かくしてクリスチャンはいつの間にか自分の肉体の生命すら捧げきってしまうのだ、ウォッチマン・ニーのように。彼は歯を食いしばっていたわけではない。あの20年間は主と彼の間の秘められた宝石のような時間なのだ。誰も入り込めない、まさに主にのみ捧げられ、聖別された年月。ゆえにそこから芳しい香りが漂い、私たちの飢え乾きを癒してくれる。まことの豊かさを味わうコツは与えること、捧げること。誰かが言っていた、クリスチャンの豊かさはどれだけ所有したかによらず、どれだけ手放したかによる、と。

こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。-2Cor 9:11

*1:什一献金はMUSTではない。マラキ書は「神を試せ」とチャレンジしている。前にも言ったが、すべては心の動機の問題。1/100でも1/1000でも各自が心に決めたとおり、惜しみなく与えること、これが鍵(2Cor 9:6-7)。
*2:神のみ言葉を意識的に拒絶することは神を偽り者とすること。恐るべき罪だ。

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