真の礼拝の場は
前に英国KFMのPennyさんが来日された記事でも紹介したが、KFM出身のRichard JeorgeのノーウィッチのCornerstone Churchでは、いわゆる「主日礼拝」なるものを行っていない。ニッポンキリスト教には午前10時の礼拝が正式な礼拝であって、毎週欠かさず参加することがクリスチャンの義務であり、ある牧師などは50年間ただの一度も欠かしたことがないと誇る向きもあるようですが、あほらしい。ノーウィッチでは「箱のない教会」の実行で、いつでもどこでも兄弟姉妹のいるところに主の体の出現があることを証している。宗教ではなく、生きているキリストとの関わりこそがすべて。彼らのスローガンを紹介しておきます:
Building on what God has done in and through earlier generatons, we see the new thing He is doing today:church without walls;church without pews;church without a building;church out there.
今日、私たちが主を礼拝する場はどこでしょう。それはまことの至聖所である霊においてです。
婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
そして教会(エクレシア)とは何でしょう。パウロは明確に定義しています:
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。
「教会とは召された人々」と明確に書いている。どこに教団組織があり、どこに教派があり、どこに立派な会堂があるでしょう。人々なのです。いたるところで、主の御名を呼び求める人々が教会なのです。「いたるところで」。カラオケボックスだろうと、大学の学食だろうと、ジャズのライブハウスだろう、温泉だろうと、いたるところ、でです。そこに神学の学びをした職業牧師が必要でしょうか。アブソリュートゥリー・ノー!そのような連中の懐に自ら入る愚かさは避けなさい。主の御名を呼び求めることが条件です。
昨今のニッポンキリスト教なるギョウカイは、告発と非難の応酬で荒れに荒れていますが、告発する側もされる側も同じ土俵にいるから反応し合うわけです。しかしこれはまだ序の口です。いくら正論を振り回したところで、そこには決して真の自由はありません。盲人には盲人の手引きはできないのです。二人とも穴に落ちるでしょう。私はそのようなニッポンキリスト教と言う忌まわしい"箱"からのエクソダスを勧めてきましたが、これからますますその立ち位置による選別がなされるでしょう。
実は面白いもので人はあえて束縛されることを選ぶのです。束縛されていた方が楽だからです。「被害者」と称する人々は自ら束縛をされ、その中で自分のアイデンティティと安心を得ようとしているのです。フロムの「自由からの逃走」はここにも見られます。自らを省みることなく、牧師を告発しても、真の解放はありません。この意味で昨今の惨状は、どちらも同じ病理的要素を持っている人々が互いに鏡に映った自分を非難し合っているわけです。
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
賢明な人は決してそのような修羅場には近寄らないこと、そして宗教の外でキリストにある自由を楽しみましょう。ヘブル書にあるとおり、主ご自身が宿営の外で焼かれたのですから
私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
ノーウィッチの教会によるこちらのFlashをぜひご覧ください: