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神の裁きの実体化

福島は神の裁きか?世界的天変地異は?解答は・・・裁きである。「えっ、十字架で私たちに代わってイエスさまが裁きを受けてくださったのではないですか?」、そのとおり。主はすべての人のために死なれた(2Cor 5:15)。が、その効果に与るためには、キリストの死と復活と結合される必要がある(Rom 6:5)。それはただ信仰のみによる(Eph 2:5-8)。信じない者はすでに裁かれている(John 3:18)。時制は現在完了型。かくして時間の流れの中でその霊的事実が実体化するだけなのだ。何年も前に書いた記事を再掲してみたい。

JAVAと信仰

最近流行のプログラム言語にJAVA というものがあります。インターネットと相性がよくて、タイトル・ページの"KINGDOM FELLOWSHIP"と"DR.LUKE'S MINISTRIES"のロゴがキラキラと輝くのはJAVAアプレットによります。JAVAはC言語を発展させて構造化を徹底させたいわゆるオブジェクト指向言語です。この言語の特徴が何だかとても聖書的なんですね。
続き
JAVAでプログラムを書くときには、すでに用意されているライブラリーの中にあるクラスファイルというものを利用します。これは例えばウインドウを開きたいときなど、誰でもが共通に使う部分はその用途ごとにクラス分けして、ちょうど半オーダーメイドの洋服の型紙みたないものが用意されているわけです。この型紙に自分のオリジナルな機能を付け加えて自分の目的にあったプログラムを書くわけです。このクラスに自分の機能を付け加えることを継承と言います。そしてできたクラスだけではまだプログラムそのものではなく、これを実体化してオブジェクト(実行ファイル)ができるのです。

私たちはアダムにあって誕生しました。私たちが継承した罪(Sin)はアダムにあって人類に入り込んだのです。この罪(Sin)はいわばクラス(型)みたいなもので、これが実体化されて個々の罪の行為(sins)が生まれます。神の目から見てアダムの腰の中にいた私たちも、アダムが罪を犯したとき罪を犯したのです。え、私はその時にはまだ生まれてなかった!とは言わないで下さいね。神の目においてはアダムはすべてを含んでいたのであり、アダムの罪はその後の全人類の罪のいわばクラス(型)なのです。このアダムにあって入り込んだ罪のクラスが人類の歴史の中で実体化されて個々の具体的な罪々が行なわれるのです。問題は私たちがすでにアダムのクラスに含まれていることであり、あらゆる罪はその実体化なのです。

そこで神の救いはアダムにある私たちをまず終わらせることから始まります。つまりアダム・クラスを削除するのです。そして私たちをキリスト・クラスに復活させるわけです。こうして死と復活をとおして、私たちはクラス(血統)の入れ替えがなされます。このときキリストにある私たちには神の義が継承されるのです。これは誕生のクラス(系列)の問題なのです。ひとりの違反により全人類が罪人になったように、ひとりの義の行為により私たちは義とされるのです(ローマ書5章を参照のこと)。これを「同一視の原理」あるいは「包括の原理」と言います。神の目から見て、私たちはキリスト・クラスに属しており、キリスト・タイプ(型)の義が私たちの人生において具体的な形で義の行為として実体化されるのです。要するに信仰はすでに得ているクラス(霊的事実・真理)を実体化することです(ヘブル11:1)。よってアダムのクラスに属する人が努力してなすことではありません。神の国に入ることは、自分が生まれたクラスがどこであるか、つまり誕生の問題なのです(ヨハネ3:5,6)。このことを真に見ればクルシチャン(苦しちゃん)状態から解放されるでしょう!

JAVAと信仰・・・思わぬところで思わぬ関係があると思いませんか?

 

かくのごとく、どちらのクラスに属することを願うかは、私たちの自由意思に任されているわけ。アダムクラスに留まるのであれば、すでに裁かれている事実を自分の人生において実体化する。信仰によるキリストとの結合によってキリストクラスに移されるのであれば、義とされている事実を自分の人生において実体化する。前者は自分の何かによって神に認めれんとするカインの道を行く。後者はすでに神が成してくださったことを受け取るだけのアベルの道を行く。

今後、すでに成されている神の裁きはますますその度合いを増して実体化される。特に黙示録の封印が次々に解かれ、6番目の封印が解かれるとき、次のように書かれている:

小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。 -Rev 6:12-17

ここからいわゆる大艱難に入る。繰り返すが、最後の7年の前半は人類の罪の現れ、後半は神ご自身の怒りが注ぎ出される。明確に語ろう、神は裁きを執行される。それは神の小羊を信じないことに対する裁きであり、すでに成されているのだ。そこから免れる道は信仰、すなわちキリストとの結合のみによるのだ。

私がキリスト教は真の福音に対するもっとも狡猾な障害であり、敵であると言うのは、この結合の実質に与ることなく、キリスト教文化、習慣、儀式、ボランティア、さらに神学を捏ねくり回し、ひとつのキリスト教の体系を作り上げているからである。表向きのいわゆるキリスト教会の会員名簿に名を連ねれば、再生されたクリスチャン・・・というわけではない。では、洗礼準備コースでみっちりとおベンキョウすれば・・・、それもまた不毛な業。カインの道だ。ニッポンキリスト教を見れば一目瞭然。

話を戻すが、黙示録の構造は指数関数だとすでに書いている。7年が進む程にその内容は濃く、あるいは過酷なものとなる。しかしここで指摘すべきは、7つの鉢の裁きの時でさえ、こう書いてある:

第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。-Rev 16:8-11

これがカインの道の証しである。かくして信じない者はこのままあの者とその手下どものために用意された火の池に投げ込まれる(Rev 19:20)。嗚呼、何と神は過酷な方であろうか!あなたは撒かない所から駆り立てる過酷なお方だ(Matt 25:24)・・・とヒュマニズムに汚染されたニンゲン、否、いわゆるキリスト教徒ですら、神を告発するであろう。愛なる神が裁くことなどなさらない!と。神を自らの慰みものとし、勝手な神像を捏造する。それにより彼らは御子の不条理、十字架を知らないことを自ら証明しているだけなのだ。彼らはこうして、神を侮っている。神の主権を認めず、自らの神学や考え方、実行、奉仕・・・などで神の前に立つことできるはずがない!彼らの最期は滅びである。なぜなら

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。Heb 6:4-8

かくして中途半端に霊的事柄に関わりつつ、血潮、十字架、み言葉、そして御霊を侮る者の状態は、不信者よりも悪くなる。もっと言えば、悲惨だ。これはニッポンキリスト教を見れば明らかだろう。あらゆる事象を通して、真の神に対する畏れを神は起こされる。しかし人間が頑なになればなるほどに、その者の受ける裁きも過酷なものとなる。それはあたかも鏡を見ているようなものだ。彼らの根底には神に対する憎悪と敵意がある。あなたは撒かない所から刈る方だ、と。カインの嫉妬だ。しかし神はすでに最も尊い種を蒔かれたのだ。アベルの道とは銀行に預ける道なのだ(Matt 25:26-27)。

これからも神の峻厳なる御手はますます重くなる。わがニッポン、Fukushimaですら悔い改めに至ることができないとすれば、果たして今後いかなる事態が待ち受けているであろうか。極私的には戦慄を覚えるのだ。


Comment

ISAIAH BEN HUR

この記事ではっきりと分かりました。神が撒かれた種を拒絶する罪は、殺人よりも重いものであると。
すでに裁かれている事が実体化すること、なるほどです。これからのその現れが重くなるとすれば、早くにギブアップしてしまうことですね。
頑固であればあるほど、主の御手が重くなること、自分の経験でも分かります。

  • 2011/09/13 18:08
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Luke

まことに。神のアイデンティティとその業を否定し、拒絶することですから。恐るべき罪です。

  • 2011/09/13 19:06
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