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そうですね、アブラムは、その信仰によって義とされたのですね(ローマ書)。これは<立場上の義>です。しかし彼は<内なる義>を得ていません。なぜなら、「キリストが義と聖と贖いとなられた」からです(1コリント1:30)。
この義の二面性が大切です。<立場上の(外なる)義>と<いのちを得ることによる内的な義>。そしてこのいのちで生きるとき、主観的義を実現できるわけです。つまりへブル11章を見てくださると分かりますが、ここの信仰の英雄たちは、その信仰のゆえに賞賛されていますが、39,40節をご覧ください。彼らは<立場上の義>は得ましたが、<約束のもの(=いのちによる義)>は得ていません!それはキリストの到来によるからです。
私たちはモーセやイザヤと比べるところは何もありませんが、彼らよりも偉大なのです。イエスは、バプテスのヨハネは女から生まれたものでもっとも偉大であるが、神の国の子らは、もっとも小さいものですら、彼よりも偉大であると言っていますから(ルカ7:28)。
ポイントはいのちを得ること−これはキリストが死と復活を経て、いのちを与える霊となられることによって可能となったのです。エデンの園で失ったいのちの木の実体こそキリストなのですから。 |