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1970年11月25日

正午、市ヶ谷。三島がバルコニーに立つ。


前にも紹介したが、彼の檄文(全文)。まことに今日のニッポン、三島の予言通りになってしまった。まことに天才には見えてしまっていた。見えていた故に、もはや生きることができなかった。かといってあの鍛えた身体をもっての凡庸な死はあり得ない。殉死の機会も、自由と民主主義なる欺瞞によって奪われた現代、彼は、自身でその機会を自分に備えるしかなかったのだ。自身の死の美学-人はそれを狂気と呼ぶが-に見合うだけのセットを・・・。

しかし、彼は単に場面を作っただけではなかった。彼は本当に腹を切った。深さ5cm、長さ14cm、腸が流れて出ていた。これが解剖所見だ。実は『忠臣蔵』の大石内蔵助たちも、彼を含める数名以外は、本当には切っていないと言われている。男が男であり得たのはその時代までだ。が、当時ですらすでに切腹は形式化しており、いわゆる「扇子腹」と呼ばれ、実質的には介錯による断頭で絶命する。その方がキレイに死ねるのだ。むしろ真に腹を切ることは、生体の反射的反応により介錯を困難にする。森田は数度も太刀を食い込ませている。惨い場面となった。

三島は小説『憂国』において、その迫真のシミュレーションをしていた。

そのとき中尉は鷹のような目つきで妻をはげしく凝視した。刀を前へ廻し、腰を持ち上げ、上半身が刀先へのしかかるやうにして、体に全力をこめているのが、軍服の怒った肩からわかった。中尉は一思いに深く左脇腹へ刺さうとしたのである。鋭い気合の声が、沈黙の部屋を貫いた。 

中尉は自分で力を加えたにもかかわらず、人から太い鉄の棒で脇腹を痛打されたような感じがした。一瞬、頭がくらくらし、何が起ったのかわからなかった。五六寸あらわした刃先はすでにすっかり肉に埋まって、拳が握っている紙がじかに腹に接していた。

意識が戻る。刀はたしかに腹膜を貫ぬいたと中尉は思った。呼吸が苦しく胸がひどい動悸を打ち、自分の内部とは思えない遠い遠い深部で、地が裂けて熱い熔岩が流れ出したように、怖ろしい劇痛が湧き出して来るのがわかる。その劇痛が怖ろしい速度でたちまち近くへ来る。中尉は思わず呻きかけたが、下唇を噛んでこらえた。 

これが切腹というものかと中尉は思っていた。それは天が頭上に落ち、世界がぐらつくような滅茶滅茶な感覚で、切る前はあれほど鞏固に見えた自分の意志と勇気が、今は細い針金の一線のようになって、一途にそれに縋ってゆかねばならない不安に襲われた。拳がぬるぬるして来る。見ると白布も拳もすっかり血に塗れそぼっている。褌もすでに真紅に染っている。こんな烈しい苦痛の中でまだ見えるものが見え、在るものが在るのはふしぎである。

中尉は右手でそのまま引き廻そうとしたが、刀先は腸にからまり、ともすると刀は柔らかい弾力で押し出されて来て、両手で刀を腹の奥深く押えつけながら、引き廻して行かねばならぬのを知った。引き廻した。思ったほど切れない。中尉は右手に全身の力をこめて引いた。三四寸切れた。 

苦痛は腹の奥から徐々にひろがって、腹全体が鳴り響いているようになった。それは乱打される鐘のようで、自分のつく呼吸の一息一息、自分の打つ脈拍の一打ち毎に、苦痛が千の鐘を一度に鳴らすかのように、彼の存在を押しゆるがした。中尉はもう呻きを抑えることができなくなった。しかし、ふと見ると、刀がすでに臍の下まで切り裂いているのを見て、満足と勇気をおぼえた。 

血は次第に図に乗って、傷口から脈打つように迸った。前の畳は血しぶきに赤く濡れ、カーキいろのズボンの襞からは溜った血が畳に流れ落ちた。ついに麗子の白無垢の膝に、一滴の血が遠く小鳥のように飛んで届いた。 

中尉がようやく右の脇腹まで引廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が劇痛をさらに攪拌して、今まで固く締っていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口が精一杯吐潟するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、喜喜として、辷り出て股間にあふれた。中尉はうつむいて、肩で息をして目を薄目にあき、口から涎の糸を垂らしていた。肩には肩章の金がかがやいていた。

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かくしてボディビルで鍛えた上げた自らの肉体を、自身の美学のために奉じた。すでに彼は自身を捧げる"主(あるじ)"を失っていたのだ。彼は言っている、武士と言う者は常に鍛錬を怠ってはないが、現代では戦場の華々しい死なんてなくなってしまった、と*1。その「生」に倦んだ彼にとっての最後の砦は、恩賜の時計を賜った天皇だった*2。また彼が武士であると見た自衛隊だった。しかし前者はすでに国家の象徴であり、後者は国家に飼われた欺瞞憲法の捕囚の群れに過ぎなかった。ゆえに彼はそのナルシシズムに殉じるしか道がなかったのだ。自己愛の究極の表現。その究極の激痛の中で漸く自身の生を確認し得たのだ。かくして彼の死は現代を象徴している。膨大なリピドーを空転消費する時代。まことにソロモンの言うとおり、空の空。そう、アイドリングの時代。そこで私は三島よりも10年も長く生きてしまっている・・・。

三島由紀夫、1970年11月25日自決。享年45歳。

*1このビデオの中で彼は、生の倦怠と言いますか、人が自分のためだけに生きることの卑しさを感じるのであります、人間は自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ねるほど強くはないのであります、と述べている。彼にとって「生」とは自分を何かのために捨てること、しかし、彼は自身に奉じた。まさにその死は、彼が指摘した自衛隊の病理と同様の「逆説」、あるいは自己矛盾だったのだ。
*2彼にとっては自分の生存を維持すること、社会的地位や名声を得ることなどはきわめて容易なことだった。そのゆえに彼は倦んだ。究極まで倦んだ。すべてに飽き足らなかった。ゆえに彼に残された自己確認の場は、自らセッティングしたその死のみだったのだ。

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