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時は元禄15年12月14日

昨日、RoppongiのTSUTAYAで購入。森村誠一『新説忠臣蔵』。

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そう、今日は討ち入りの日だ。藤原秀郷氏の子孫である大石内蔵助、昼行灯、茫洋として何を考えているか分からない鷹揚な人物。根っからの自由人で、遊び好き。美男子ではなかったが女にモテた。お家断絶の後、山科に篭もり、橦木町*1で浮橋と浮名を流した。敵を欺く策とも言われているが、それが人間大石の大石たる処と私は思っている。前にも紹介したが、この書は彼の筆になるもの

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ここに掲載したのは細川家下屋敷に預けられた義士たちの世話をした堀内伝右衛門が切腹直前の内蔵助に頼んで書いてもらったものですが、実際は源実朝の歌をそのまま書きつけたものです。とっさのことゆえ・良い句が思いつかなかったのかも知れません。

武士の矢並つくろふ 小手のうへにあられたはしる那須のしの原

内蔵助の筆跡について、書道家の石川九楊氏は次のように印象を語っています。

『筆跡を見るとスタイリストだったのかなという気がします。「ふ」や「る(流)」の最終の点が右上に高く位置してポーズを取っています。当時の武家の基本書法である御家流を踏まえていますが、筆先が立って筆圧が高い。例えば「の」の字。終筆部でいったん沈んでから上に向かう時、少し左に出して・ゆるやかに上げていくのが普通なのに、大石は鋭く一気に回転部を書き切っている。たぶん独自の美学があった人ですよ。代々家老を勤める家に生まれたわけだから、教養もあったでしょうしね。』(「芸術新潮」・特集「世紀の遺書」・2000年12月)

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死を前にしてこれだけの洒脱な書をものせる彼の胆力。大石内蔵助良雄、実にわが憧憬の人物。討ち入りを見るとき、物事は人数ではないと分かる。彼は当初三百以上いた家臣に血判を押した神文を書かせている。しかしある時、討ち入りはやめたとして、それを全部返して回った。喜んで受け取る者はそのまま去らせた。次々に個人の事情で脱落する者もあり、残ったのは大石を入れた四十七士*2。まことに2万人以上を300人にしぼったギデオンの物語と共通する。鍵は忠義。大石は言っている、まことに武士の道は愚かにして、ややこしきものでござる、と。彼はすべてを了知しつつ、なお、そのために命を差し出したのだ。

 あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし

*1:よく祇園一力茶屋と言われているが、実際は伏見橦木町萬屋。
*2:討ち入り後姿を消した足軽の寺坂吉右衛門をどう見るかで、四十六士とも言われる。寺坂が大石の密命を受けたのか、単に逐伝したのか。寺坂について描いた池宮彰一郎の『最後の忠臣蔵』は前に紹介した。

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