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戦後史の正体

朝が気持ちいい。空気が実に爽快。イイ季節に入ってきた。

さて、先に紹介したこの一冊。実に面白い。防衛大の高校生レベルの学生が寝ることのないような講義を追及した孫崎氏が、確かに高校生でも分かる平易な文体で、事実を淡々と提示している。

例えば、吉田茂像。一般にはGHQと堂々と渡り合って戦後のニッポンの体制を作った人物とされている。が、事実はさにあらず。ひたすらGHQに恭順の姿勢を示して、そこを自身の権力基盤の根拠としたのだ。むしろ重光氏などをして、裏でこそこそとアメリカの政策に抵抗する不穏分子としてなじっている。事実は、重光は命を賭してまことのニッポンの自立を目指していた。孫崎氏はこれを倒錯心理だとする。そう、現ニッポンを覆っている黒が白、白が黒の倒錯現象だ*1

さらにマスコミやいわゆるニッポンのエスタブリッシュメントたちはみなGHQ詣でをして、アメリカに取り入ったのだ。このことを重光氏は「結局、日本民族とは、自分の信念を持たず、強者に追従して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったののではないか」と嘆いている。まことに私の言う去勢されし国家だ。しかし同氏は「結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をおうはずだ」と希望を語る。孫崎氏はその自尊心の復活を期待しつつ、残念ながら・・・と。

かくして天下りの現憲法の舞台を設定され、その上でアメリカによって「どじょう踊り」をさせられているのがこの国の実情だ(本当にTPPでアメリカに媚びるどぜう氏が出てくるとは・・・)。要するにすべてはFAKEなのだ。ま、同じアホなら・・・というところ。日本論はいろいろ読んだが、これほどに事実だけを語る本はこれまであまりなかったように思う。事実は何よりも雄弁なのだ。アメリカの仕掛けの中で操り人形が踊っている。まさに陰謀「論」ではなく、陰謀そのものがニッポン的事象なのだ*2。ちなみに物理学者の井口博士も触れている:

同書についてはこちらにかなり詳細な紹介がなされている。私はここまで書き込む気力も時間もないので、ぜひどうぞ。

戦後70年、聖書的な一世代が終わりつつあるわがニッポン。これまでのアホ踊りは通じない世界の混乱に巻き込まれ、国家的民族的試練を受ける時代に入ってきている。この国は一度ガラガラポンが要るが、神の重い御手がすでに置かれていることを覚えるべきであろう。再度言うが、いわゆる復興などはあり得ない!まことのその主の御手を覚え、その主権に服すること、これのみがこの国が憐れみを受ける道である。

・・・で、これからプールとサウナ、午後は映画・・・と、いつもどおりの小市民生活を送る予定のDr.Lukeであります。

追記:三島由紀夫の『檄文』を再掲しておこう:

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。三島由紀夫


*1:聖書の啓示をそのままに語ると原理主義カルト、御言葉を自分のオツムでこねくり回し、歪曲し、神を自分の慰み者とするニッポンキリスト教。まことにニッポン社会とニッポンキリスト教、共に倒錯した世界、これらは何度も言うとおり合わせ鏡なのだ。
*2:メインストリームで言われる"事実"以外の事実を指摘すると陰謀論者とするのが、わがオメデタ・ニッポンとその合わせ鏡であるニッポンキリスト教だ。オツムのよろしい方々が多いようでまことに結構なこととは思うが。このままでは両者とも確実にオワル、否、すでにオワッテいる。

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