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劉備と言うアイコン

仁徳の劉備。『三国志』におけるヒーロー、仁と義に厚く、徳の高い人物。関羽、張飛、さらに張雲、諸葛孔明が彼に仕えた。が、戦績はそれほど優秀ではない。『正史』にはあの有名な桃園の三兄弟の契りはない。北方謙三版でもそれは不自然としてカットされている。

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しかし184年位に契りを結んだ三人の若者はその後も流浪の旅を続け、「赤壁の戦い」でようやくめぼしい勝利を得る208年までほぼ24年間、その間に曹操に敗北を喫し、袁紹などの下に身を寄せるなどの惨めな経験もした。しかるに、何故に三人の結束は保たれたのか。敵側による「離間の計」(仲間割れさせる策謀)もあったろうが、彼らの結束は崩れない。劉備は曹操による急襲により妻子を捨てて逃げてもいる。情けないこと限りない。普段は高潔な仁徳を説きながらも、戦闘は敗北の方が多いのだ。しかし張飛は彼の妻子を体を張って守り、また曹操の下に身を寄せた関羽も妻たちを体を張って劉備の下に連れ帰っている。張雲も同様。自殺する奥方から託された劉備の子阿斗を身を挺して守るのだ。なぜ彼らはそこまで劉備に入れ込んだのか。劉備の唯一の"実績"と言えば、名前から分かる通り漢の末裔であることだけ。その血筋に甘え、口先だけの気取り屋の観すら感じられる。

で、同じ疑問を抱いた北方は次のような仮説を提出しているのだ。

 これはぼくの仮説だが、二人は劉備に、弱く、情けないところがあるとよく知っていたから、劉備と行動を共にし続けたのではないか。・・・劉備には本当に強い腕っ節や情に流されない決断力がない、それは俺が補ってやらなければ・・・。自分がいないとこの人はだめになる。男でも女でもそんな気持ちが人を深みにはまらせるものだ。
 結局、劉備と関羽と張飛は三人で一人、だめな部分をそれぞれ相補う関係だったというのが、ぼくの結論だ。・・・劉備のだめな部分は張飛が、そして関羽が引き受ける。極端に言うと三人で一人格のようなものだから、これは途中で別れるわけにはいかない関係なのである。-『三国志の英傑たち』

なるほど、面白い。実際、劉備は自らの徳の高さと反比例して、その息子阿斗は出来が悪かった。社会性も生活力もゼロ。学校の校長やキリスト教の牧師などでもよくあることだが、「きよく・まずしく・うつくしく」的な人物の子供たちや家族は、しばしばその人が排除した負の部分を引き受けさせられて悲惨な末路を辿ることが多いものだ。劉備の場合、関羽や張飛らによりその負の部分が引き受けられ、それが三兄弟の契りと言う美談の形で昇華され、あの「仁徳の劉備」のアイコンが維持されたのだ。劉備の人生を見る時、キリスト教の病理の原型を見ることができる。その点、曹操の息子たちはそれなりに自立し有能だった。後継も司馬懿によりクーデターの形ではあるが魏から晋へと統一されていった。

多くの場合、親や指導者があまりにもキレイキレイだと、その子供たちや後継者が悲惨になるものだ。むしろ彼らは彼らのダメさから学び、自立していくことが多いのだ。前から言っている通り、子供たちはキリスト教のCSなどではなく、エジプト(この世)で育てるべきなのだ。カナンの良き地(宗教)には無能な兄たちが親の資産を食いつぶしていた。しばしばキリスト教は無能な生活力のない甘えたニンゲンか、あるいは自分を"神"とするモンスターを作り出す。これは今のニッポンキリスト教の絵でもあるのだ。

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