漢詩の魅力
- 2013/06/16 11:36
- Category: 独白
- Tag: 漢詩 陶淵明 ニッポンキリスト教
それは、写真と同じだ。その時・場所・瞬間・感動を印画紙(最近はデジタル・データ)に焼付けておける写真と同様、文字の世界として凍結しておけるのだ。もっと言えば、この否応なく過ぎ去る時間を止めることができる。人間の根源的欲求である生きていたい、つまりこの生を慈しみ、楽しみ、嘆き、歓喜する、その営みの結晶と言える。クリスチャンの経験は多分、子羊のいのちの書に記されるのであろうが、この地上においても、なお、自分の生の証しを留め置きたいという切ない願い。誰もが持っていることであろう。詩人をして創作意欲を生み出すのは、まさにこの瞬間の生の感動なのだ。
人生は根蒂無く
飄として陌上の塵の如し
分散し風を追って転じ
此れ已に常の身に非ず
地に落ちて兄弟と為る
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
歓を得ては当に楽しみを作すべし
斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
盛年 重ねて来たらず
一日 再び晨(あした)なり難し
時に及んで当に勉励すべし
歳月 人を待たず
飄として陌上の塵の如し
分散し風を追って転じ
此れ已に常の身に非ず
地に落ちて兄弟と為る
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
歓を得ては当に楽しみを作すべし
斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
盛年 重ねて来たらず
一日 再び晨(あした)なり難し
時に及んで当に勉励すべし
歳月 人を待たず
「時に及んで当に勉励すべし」-人生は長くはないのだから、時を捉えて一生懸命勉強すべきだ、ととらえた人はかなり宗教の霊にやられている。聖書の言葉も文脈をはずすととんでもない誤解により自滅する。ニッポンキリスト教徒に多い例だ。日本語で聖書を理解してはならない。漢文においても、たとえば「故人」とは、「亡くなった人」ではない。「友人」なのだ。かくして陶淵明は何を励めと勧めたのであろうか。文脈を見れば明らかであろう。人生を楽しめと言っているのだ。はたして主イエスは、キリスト教徒たちが自分の言葉を勝手に解釈してクルシチャン化していることをどう感じておられるのであろう?
注:絵は無弦の琴を手にする陶淵明。目に見える手段や方法に囚われないで心の中で琴を弾ずることができたという。中島敦の弓を忘れた弓の達人を描いた『名人伝』を彷彿とする。
電気屋
いやー持ち上げたくないけど
深い事をサラリと...
どうしたらこういう風に書けるかな
「日本語で聖書を理解してはならない。」
天からの風を読むしかないですね。