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アソビを失った人々の怖さ

人間はホモ・ルーデンス。

ホモルーデンス【homo ludens】

〔遊戯人の意〕
オランダの歴史学者ホイジンガの用語。遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観。遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え,生活に意味を与えるものであると主張される。-大辞林

組織も「20:80(パレート)の法則」で成り立つことは何度か書いた。つまり重要な仕事の80%を20%の人がこなし、あとはそれにブル下がるだけ。社会もそうだ。社会を維持する人は20%、あとは実質的には役に立たない無駄飯食い(Useless Eaters)が80%なのだ。じゃ、彼らを排除した方が合理的かというと違う。80%のムダな人々を排除すると組織は崩壊するのだ*1

つまり人間生活と社会にはムダとアソビが必要なのだ。そのアソビを見失った人がどのような状態に陥るかはニッポンキリスト教の「リバイバル音頭」を踊りたい必死の形相の人々や、逆に彼らを告発する輩を見ると分かる。いずれも狂気へとつながる*2。まあ、私のように遊び過ぎの人もいるかもしれないが(別に批判や非難に反論するつもりもないが)、自分の心や他人を偽って、「聖別されて主のために火の玉になって伝道や奉仕に邁進すべし!!!」と、ややもすると一億層玉砕的なメンタリティに陥り易いのがニッポン人だ。それに迎合しないと神への反逆者とされるから怖い。それらは所詮魂の高揚に過ぎない。

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この点、主イエスがナザレで送られた30年間の人間生活を思い巡らすべきであろう。彼はどんな生活をしていたのだろう。ナザレでは御業をほとんど行えなかったとあり、現地の人々も「あいつはヨセフのセガレじゃねえか」と侮った(Mark 6:1-5)。それほどに彼は普通の人だったのだ。が、しかし、時が至り、最後の3年半に行った業は神の業だった。リバイバルもしるしや不思議をなすことも、われわれが必死に祈ったり・ガンバルことにはまったくよらないのだ。神のタイムテーブルにしたがって、時が至れば自ずとそれらは起こる。神はご自身をご自分で証しされる。せいぜいそれまでは脱力(アイドリング)して、まったりとアソビを楽しもうではないか。

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*1:何でもロスチャイルドやロックフェラーはこれらの大衆をいろいろな方法(ワクチン・抗がん剤・食品添加物・AIDS・ケムトレイルなどなど)で抹殺して、世界人口を5億人程度にしたいのだそうだ。例の『シオンの議定書』にその計画が書いているらしい。最近のハリウッド映画でもこの種のテーマの作品が多くなっている。
*2:WWII時代の総国民動員法とか、ニッポンキリスト教の民族総福音化運動とかはまさにこれだ。

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