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三春寄暢-王羲之

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古代中国では三月の最初の巳の日に川や湖水で身を清め、禊ぎをする習わしがあった。下って三国時代の魏では上巳を三日とし、修禊(しゅうけつ)の日となり、流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴を開くようになった。曲がりくねった水の流れに酒を入れた杯を流し、その間に詩を詠むのだ。もっとも有名なのが書道家であった書聖王羲之(おうぎし)の作「蘭亭詩六首」。353年、紹興酒で有名な紹興(浙江省)の蘭亭で開かれた宴で歌ったもの。ちなみにこの曲水の園が平安時代に伝わり、その後「ひな祭り」になったのだ。

 三春は群品を啓き
 暢(ちょう)を寄するに 因る所に在り
 仰ぎて視る、碧天の際
 俯して瞰(み)る 綠水の濱(ひん)
 寥闃(りょうけき)たり 無厓の觀
 寓目すれば 理 自ら陳(の)ぶ
 大なるかな、造化の功
 萬殊 均しからざる莫(な)し
 群籟(ぐんらい) 參差(しんし)たりと雖(いえど)も
 我に適(かな)いて親しむに非ざるは無し

春の季節になれば万物が目覚め、
至るところに伸びやかな情を誘うものがある。
仰ぎ見れば碧空の果てを見、
俯して見れば緑の清流の水際に。
無限の天地は果てしなく広がるが、
よく見れば自然の道理が働いていることがわかる。
なんと偉大なるものだろうか、造物主の力は、
万物はみな異なっているが、造物主の力を受けている。
万物の生む物音は、それぞれ異なる響きを発しているが、
みな私の楽しみとなり、親しみを感じないものはないのだ。

まことにパウロの言うがごとし:

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる-Rom 1:20

王羲之がこの蘭亭の宴で酩酊状態で書いた書は、その後彼自身がそれを超えようとしても越えられないほどの出来栄えであり、神品と称された。しかし、彼の書を好み収集した唐の太宗(李世民)が自分の墓に埋蔵してしまい現物は残されていない。後に筆写したものが伝わっている。

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この書に見える美、これは何に由来するものだろうか?大脳のどの部分がどのように反応すると「美しい」と感じるのだろうか?詩も音楽も書も、神が埋め込まれた美のスイッチをオンにする契機を与えるのだ。私たちは自分で創作することはなかなかかなわないが、その美を受け取ると、内的にその波動が広がり、それを自ら楽しむことはできる。芸術の不思議さである。

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