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道元の「有時」と華厳経

下に紹介した物理と仏教のサイトにあった、華厳経の現代訳を紹介しましょう。道元の『正法眼蔵』はここでも何度も紹介していますが、「有時の巻」にも相通じます。

微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、
少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、
広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、
一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、
限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・
限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・
異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、
限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、
一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・

要するに仏典とは元々、自然あるいは世界をどう認識し、どう関わるかを提示する。ある意味で認識論のひとつなのだ。その際私たちの心が映す映像(世界モデル)を正確に構成しないで、自分の欲や野心で歪むことにより、苦が生じると言うわけ。その世界が無知蒙昧。偽りの世界(→Mr.Sugarの記事参照)。道元も<今、この時>の瞬間に生きること、すなわち<前後裁断>を提唱している。物理的には<今、この時>はまさにディラックのδ関数であり、それに対する反応がインパルス応答(グリーン関数)であり、人生はこのたたみ込み(convolution)なのだ。

悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。そして私たちの神は、永遠の"AM"である。まさに永遠の現在なる方。この方のうちに安んずること、これが私たちの人生である。かつて山谷少佐が指摘されたように(→記事)、「禅の真理契機を完成するキリスト」なのだ。キリストこそまことの実存、ディラックのδ関数の実体であり、その方に対する応答の畳み込みこそが、私たちキリスト者の「生」と言える。

Comment

デンスケ

>悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。

DTMで遊んでいるデンスケですが、「リバーブ」をまったくかけないと、味もそっけもない音になります。「リバーブ」をかけすぎると音が濁ってしまいます。
適度な「リバーブ」をかけるのが人生の妙味ともいえそうですね。

Luke

なるほど、それも人生の名残り香・・・と。

  • 2008/07/11 08:12
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