「ちゃん」付けはパワハラ?
- 2007/11/30 19:24
- Category: 独白
やれやれ、山梨大の先生が女子学生を「ちゃん」付けで呼んで、不快感を与えたらパワハラで処分されたとか(→記事)。これ、人事ではないゾ。私なども「ちゃん」付けで呼んでるよ~。
と、言うわけで、すべてはその前のラポールの取り方にある。お互いに親しみを覚えているならば、「ちゃん」の方がお互いに楽しいのだ。その前提が崩れていると山梨大になる。どうもこの「何とかハラスメント」の形式的構成要件だけが一人歩きして、そもそもの人間関係のイロハがどこかへ飛んでいる感じがするのだ。これでビクビクしている先生も多いことだろう。まあ、パリサイ派律法主義のようなものだ。
対して、先週相談に来た女子学生などは、高校時代に剣道をやっていて、顧問の先生から殴られたり、蹴飛ばされたりしたが、それでもその先生を尊敬し、慕い、人生の模範にしている、と言っていた。これもまたビックリだったが、人と人の関係と言う内実が壊れている現代を象徴する事件ではある。
ニッポンキリスト教でも、神と人のいのちの交わりの内実がないままに、"リバイバル音頭"を踊らされ、献金や奉仕を求められ、消耗している兄弟姉妹がいかに多いことか。クリスチャンが"DOs&DONTs(何をすべきか、すべきでないか)"にハマルと悲惨なものがあるが、いのちの交わりと言う実質を欠いた形式主義、これが「キリスト教」と言うイエスの名を用いた最悪の宗教なのだ。ソレにハマルくらいなら、「●●学会」や「○○の科学」の方がよほどシアワセになれますよ。
momo
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。ヨハネ1 5:3
子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。ヨハネ1 5:21
イエス様への愛が深まるほど命令を守りたいと感じるようになっています。その命令は忍耐を必要としますが重荷とはならないことを知っています。イエス様を仰ぎみるならば自分の心で自分を窮屈にすることがないと実感しているからです。偶像で満足せず主イエス・キリストの真理の道で満たされることを祈ります。