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Johnとの再会

午前中はプールとサウナ。いつもどおり1,000㍍を。で、帰りにまた桜を鑑賞。何なのでしょう、この色が実に心を和ませるのだ。
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午後は映画、ではなく、2年前に横浜から宮城県の七ヶ浜へ移ったJohnがしばらくぶりに上京したので、横浜で交わる。彼は横浜で英語学校を経営し、順調にいっていたのに、2年前にそれをたたみ、導きによってド田舎の七ヶ浜へ移った。彼は日本に来た時、"I'm home."と感じたほどに日本に心があり、いずれ骨を埋めるつもりなのだ。定住しない生き方を実践している。

話のテーマは交わりのこと。教会エクレシアとは私たち自身であり、2,3人が主の名の中に集まる時にその実際に触れることができる。いわゆる既成の歴史的キリスト教のあり方に、改革派出身の彼も疑問を持っているわけで、私たちは教会というよりは、エクレシアを追求したいのだ。この点で2年ぶりだったが、まったく同じことを主から聞き、見ているので驚いた。
続き
ちなみに英国のPennyCornerstone Churchでも毎週のいわゆる聖日礼拝はしていない。彼らの交わりはパブやカフェであったり、それぞれの家であったりする。別に時間を決めているわけでもない。自然発生的に主を慕って集まるだけ。Johnによるとアメリカでも、メガチャーチが目立つ一方、いわゆる既成の教会に通わない(この言い方も変なのだが)群れが起こされているようだ。原則は「2人または3人がわたしの名の中に集まる時、わたしもまたそこにいる」と言う主のお言葉。

問題はわたしの名の中。私たちの間でも「Dr.Lukeが不在だとセレブがお休み」と認識されている兄弟姉妹がいるようだが、これはまったく私の意図ではない。私のメッセージがあろうがなかろうが、単純に主だけを慕って集まることができるようにならなければ、私はいずれKFCをたたむ。牧師やメッセンジャーの恵まれるメッセージを求めて集まるという現行のあり方は、まったく主の意図からかけ離れている。特にニッポンキリスト教では甘えの構造によって信徒さまと牧師さまの病理的人間関係模様が展開する。

エクレシアの実際と拡大は、エルサレム教会が迫害で散らされた時に成就したように、内向きに力を集めることではなく、世の中へと散っていく事にこそ、その実際がある。桜の美しさも散り際。2人または3人の集まりがエクレシアのフロント(最前線)なのだ。頼りになる先生やいわゆる教会に安定を求める心ではいずれバビロン化する。いつでもどこでも、ただ主イエスのみ。散らされる時にこそ、エクレシアはそのダイナミックな霊のいのちを躍動させることができるのだ。そしてそれはどこかに留まりたい人々をあとにして、出ていく少数の人たちに託されていると感じる。

今回のJohnとの交わりでも以上を確認し、大いに励ましを受けることができた。シェアできる兄弟姉妹がいることは実に幸いなことである。

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