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霊と真理による礼拝の回復

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。-John 4:24

ここの「真理」とは霊的リアリティ、すなわち神がキリストにあってなされた霊的な実体そのものだ。「もって」の原語は"en"、すなわち"in"だ。よって「霊と実質にあって」がもっとも適切。御霊は私たちにイエスご自身とその言葉と業を証するために私たちの霊の内に住まわれる。この霊の中に入ること、すなわち至聖所(CUBE)の中に入ること。そのとき、御霊は真理、すわなち霊的実体を私たちの内に実体化される。これが信仰だ。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。-Heb 11:1

ここの「確信」の原語は"hupostasis"、すなわち実質・実体・本質、「確認」は"elegchos"、すなわち証明・確信。客観的な霊的リアリティを自分にとっての主観的事実にすることだ。月という物理的事実は私とかかわりなく存在する。月から出る光が、私の目を通して視覚野において実体化されるとき、その月は私にとっての内的事実となる。同様に霊的リアリティは私たちの霊によってのみ、私の内的事実となる。これがいわゆる「御霊による内的証明(Inner witness of the Spirit)」だ。これを得る時、私たちは自ずと膝まづき、地に伏して、神を拝する心に導かれる。これが霊と真理による礼拝だ。

「霊と真理による礼拝」とは、したがって、真の供え物である屠られたキリストを私の経験として得て、そのキリストを御父にお捧げすること。神はありのままの私たちなどは決して受け入れられることない。ただキリストにあることによってのみ、私たちは神の御前に立てる。もっと言えば、ありのままの私たちを神の御前に置くことは、古の大祭司が至聖所の中で神の裁きに打たれることがあったように、きわめて危険性のともなう重大な罪だ。それは土足で神の臨在に踏み込むことだ。現在のニッポンキリスト教に蔓延する「ありのままのあなたが高価で尊い」などの「セルフ教」、すなわち神を侮り、キリストの十字架と血を貶める輩は、自らを神としつつ、自らに神の裁きを積み上げていると知るべきだ。神は侮られる方ではない。

すでに英国だけでなく、ヨーロッパ全域が世俗化し、霊的力を失う隙にイスラムが着実に侵入している。これはニッポンでもすでに水面下で起きているのだ。ニッポンキリスト教は彼らにとてもではないが太刀打ちできない。モスレムはある町に入ると、そこの最も高い場所に立って、アッラーの力と統治とを宣言し、その街をアッラーに捧げるのだ。そして数家族が家庭集会的に礼拝を行いつつ、布教を行い、ある時にモスクが立つ。その時にはすでに街の10%なりがモスレム化している。これがヨーロッパで起きている。彼らの霊的パワーに対抗し得るのは、ただイエスの御名にある権威と、神がキリストにあってなされた霊的事実だけだ。神学だの、思想・主義などは何の役にも立たない。

ちなみにこちらのビデオをご覧頂きたい。果たしてこれはどこの光景だろうか?

スペインだ。

かくして時代の霊は反エクレシアと反イスラエル。神がキリストにあって成就された霊的事実を歪曲し、否定し、ついに貶めて、神の顔に泥を塗ることを目論む。いわゆるキリスト教はすでにあの者の霊によって侵食され、霊的パワーを喪失している。今こそ、霊と真理による礼拝の回復が求められる時代なのだ。

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