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神の国は・・・

再建主義の富井氏に関して感じる違和感はどこから来るものだろうか-

神の国建設に興味がないのは、聖霊がいないからである。
聖霊がわれわれのうちにいれば、必ず神の国に関心を持つはずだ。
神の国を発展させたいと思うはずだ。
全財産を費やしてもそれをやりたいと思うはずだ。
なぜならば、聖霊は神であり、創造の目的として「神の国の地上支配」を設定されたから。

主イエスのことばと比べてみて欲しい-

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29

あえて言えば親鸞の自然法爾(じねんほうに)。私の著書にも書いたが、道元の心身脱落である。

「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて。ことさらに)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏。ここは、無色無形の真如そのものをいう)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

 弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

ここの「仏」や「阿弥陀仏」をキリストに置き換えれば、そのままイエスの言葉と一致する。そう、禅も仏教も真理なるお方の型なのだから。彼らは実質を得てはいないが、それを指しているのだ。苦しチャンからクリスチャンへの転換は心身脱落による。それは法則に任せること=自然法爾=なのだ。これは老子の無為自然にも通じる。

虚を致すこと極まり 
静を守ること篤(あつ)し
万物並び作(おこ)れども
吾は以って復を観る

天なればすなわち道
道なればすなわち久し
身を没するまで殆(あやう)からず

あなたがたは思い煩ったからと言って、神の毛の一本も黒くも白くもできない-Matt 5:36

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