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背景画

昨日の義父の前夜祭でお伺いした牧師の金太郎飴の説教から思ったが、結局彼らの言葉は飾り物。ニッポンキリスト教自体が対世間において、すでに単なる背景画と化しているわけ。毒にも薬にもなっていない。世からはほどんど無視され、"クリスチャン"であることがアクセサリーとなっている。これはタレントが十字架のペンダントをつけているのと同じ。しかし私はこれはこれでよい兆候だと感じている。とにかくこの業界は一度完全にポシャル必要があるからだ。

小沢さんの翻意は困難とのこと。やはり何か相当の理由があるのだろう。単に"国民のための連立"(嘘だろ~)を拒否されたことを不信任と受け止めたわけではあるまい。誰かに致命傷となり得る弱みを握られているのかも知れない。田中角栄のように・・・。世間は一応こういった政治現象に驚いているが、実はこれもすでに背景画と化している。国民はある意味失望を避けるための諦観状態にある。何をしても無駄と。これも確かにそのとおり。

なぜならあるシナリオに沿っているからだ。これまでのニッポンの政治は、「日本国民のため」と言うプロトコルではなく、「米国の利益のため」と言うそれを採用すると、すべてが容易に解けてしまう。問題はアメリカの目にニッポンの利用価値がないと映る時である。その時何が起きるだろうか・・・。

かくして去勢されたニッポン社会も、さらにまた去勢されたニッポンキリスト教も、お互いに阿吽の呼吸で波風立たぬように狂言を演じているわけだ。持て余したエネルギーの発散場所を探してさ迷うばかりだが、両者の内部では徐々に、しかし確実に腐食が進行している。嗚呼、これで私も弱みを握られて葬られるのだろうか・・・^^。

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