Entry

トップ > 信仰 > 荒野に宴をもうけ

荒野に宴をもうけ

ファイル 4064-1.png


ウォッチマン・ニーの黙想


 なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか・・・あなたたちもぶどう園に行きなさい-マタイ20:6f

 ここにある「何もしないで(idle)」と言う単語は、ギリシャ語でargosですが、パウロが説く罪からの解放を実によく説明してくれるものです。なぜなら、この単語はローマ書6章6節にある十字架によって「罪の体が滅ぼされて」、正確には「無効とされて」あるいは「機能しない」と訳された単語の語根であるからです。罪(単数形のSin)は、私たちの古い主人だったのですが、依然として存在しています。しかしキリストにあってその主人に仕えていた奴隷は十字架において死に渡され、罪から解かれて、その肢体は罪に対しては失業状態とされたのです。ギャンブラーの手は失業しました。詐欺師の舌もまた失業しました。そしてこれらの肢体は今や、「神に対する義の武器」として用いられるのです。これらの状況に置かれるためには、主の質問に次のように答える必要があります、「なぜなら誰も雇ってくれないからです」と。そして新たに、栄光の報酬をくださる主によって雇われる必要があるのです。「あなたたちもぶどう園に行きなさい。何でも必要な権利をわたしは与えます」。

□注:"idle"でいることは幸いなのです。誰に雇われるか、キリスト教や牧師や教団や神学と言ったものに雇われることは災いです。

Trackback URL

https://www.dr-luke.com/diarypro/diary-tb.cgi/4064

Trackback

Access: /Yesterday: /Today: