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イエスは十字架で何を完成され、今またここで、何をなして下さるのか?

11月中旬に六本木で遊び、風邪をひき喉がやられて咳が止まらず、12月中はジョッギングとスイミングができなかった。加えて右足のマヒで1月もアウト。しかも右足をかばって左足の膝を痛めた。身体はかくの如く全体性(wholeness)が大事なのだ。一か所の故障がすべてに伝わってしまう。で、ようやくジョッギングとスイミングに復帰。何と気持ちのいいこと!当たり前にできたことが当たり前でなくなり、再び当たり前になるとき、そのありがたさが実感される。Thank you Jesus!!!

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さて、話題の映画『エクソダス-神と王』を観てきた。

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ストーリー的にはだいたい聖書に即しているが、ホレブの山でモーセが神と立ち会う場面では、モーセが土砂崩れに見舞われて頭を打ち、その時になぜか正体不明の少年が現れて、彼が「わたしはありてある者(アイ・アム)」と宣言し、「エジプトに残るヘブライの同胞を見て来い」と命じる。土砂に埋もれたモーセは助け出された後、自分が見たこと・聞いたことを混乱の中でチッポラに告げるが、彼女いわく、「頭を打って、幻想を見たのよ」と・・・。「えっ!幻想?」つい、「ぼくは頭は打っていないが・・・」と独り言を・・・

エジプトについた彼は、神が下す過酷な裁きに苦しむエジプトとファラオに同情しつつ*1、同胞と共にエクソダスする。エジプトのファラオの顧問はこれらの災害について自分の世界観と知識の中でロジカル&シーケンシャルに解説をする。あたかも昨今の中東情勢をめぐるテレビのコメンテーターの如く。割れる紅海も、モーセが道を誤り絶望の中に沈む時、津波の前兆で起きた引き潮だったとする。さらには律法の石板もモーセが自分で彫ってしまうのだ。ここにも先の正体不明の子供が同席する。

・・・というわけで、リドリー・スコットのオツムの世界観(パラダイム)のフィルターを通された「エクソダス」。映像は3Dが楽しめる。

詩篇78編を見ると、そのエクソダス以来、神がしるしと不思議をもって民を解放したのにも関わらず、民はそれらを忘れて、神を悲しませることが訴えられている。

彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。
また先祖たちのように、彼らが、かたくなで、逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないためである。
エフライムの人々は、矢をつがえて弓を射る者であったが、戦いの日には退却した。
彼らは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、神の数々のみわざと、神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった。・・・
そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。「神は荒野の中で食事を備えることができようか。
確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て流れがあふれた。だが、神は、パンをも与えることができようか。ご自分の民に肉を備えることができようか。」
それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。火はヤコブに向かって燃え上がり、怒りもまた、イスラエルに向かって立ち上った。
これは、彼らが神を信ぜず、御救いに信頼しなかったからである。-Ps 78:7-22

要するにエクソダスで起きたことは真実であり、神の契約に基づく救いのみわざであり、それに信頼せよ、と訴えているわけだ。神の言葉は永遠である以上、私たちにも適用されてしかるべきであることは論を待たないだろう。

これまでの私も含めて、現代における神の直接的介入による癒しや、しるし・不思議がないとする人々は、イエスが十字架で成就された事の範囲にそれらを含めていないことになる。あるいは客観的には含まれていてもいなくても、現在では神はあえてそれをなさらないと。神が全能であることはクリスチャンであれば誰もが異議を唱えることはないと思うが、食い違いが生じる原因は、「十字架の贖いの範囲」と、「現在における神の意志の有無」にある。

第一の論点については、十字架の効力には霊的病の癒しは含まれていても、物理的病の癒しは含まれないとする人々がいる。

第二の論点については、イエスは地上におられるときは「わたしの心だ」(Matt 8:3)としてらい病を清めたが、それはイエスの神としての能力の発揮であり、単なる人間である私たちとは違う*2、だから私たちには同じことはできないし、現在ではイエスもなさる意志はない、とする人々がいる。

もうちょっと根源的には、聖書自体をそのまますべてを神の霊感によるとする立場は危険である、とする人々もいる。その場合は、霊の再生も、聖霊による神の内住や導き、さらに神との交わりや会話や聖化も、もっとさらには神の御顔・眼差しとしての臨在や重さとしての栄光も幻想であり、幻覚であるとするしかなくなるだろう。もちろん祈りに対する答えや、病の癒しなどの神の直接的介入は絵空ごとになる。いわゆる社会派リベラルの方々の立場。この場合は、聖書の土俵に立っての共有は不可能となる*3

今、私がはっきりとさせていきたいことは、十字架の効力がどの範囲までなのか、どこまで私たちはそれに参与できるのか、そして現在における神の意志はどこにあるのか、という点。これもすべては神の国の地上における現出(Mark 1:15;Matt 12:28)のため。「主の祈り」を真に祈るためなのだ*4。ちなみに御言葉はこう言っているのだ:

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。-Isa 53:5

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。-Heb 13:8

*1:ここで再び正体不明の少年がヘブライの同朋の苦しみについてはどう思うのかとモーセに迫る。
*2:これはかつての私の立場。イエスよ、あなたは神だから、と。しかし、人間としてのイエスと私たちとの違いは何か。私たちの体には罪(Sin)が住んでいる(Rom 7:18)。が、私たちの行いとしての諸々の罪(sins)はイエスの血により完全に消去されている。神は私たちがあたかも罪を犯したことのない者として見て下さる(Isa 1:18)。この面ではイエスとまったく同一視される。このことが信じられない人は魂の癒し、つまりトランスフォーメーションを必要とする。神は「私たち」ではなく、キリストを見ておられるのだ。聖書はさらに、私たちは新創造であると宣言する(2Cor 5:17)。ゆえにイエスが人としてなされたことは私たちも同じことをなし得るのだ。しるしや奇跡は神としてのイエスの証明であるとするならば、現在でもイエスは同じことをして下さるかどうか、という問題になる。これについてはイエスがヨハネ14章で言われる言葉が解答となるだろう(John 14:12-14)。後は個人個人の信仰の問題なのだ。
*3:彼らにとっては聖書は思想書、あるいは人生論・指針書、あるいは宗教哲学書、あるいは神に関する古代の記録となるのだろう。
*4:イエスはこのように祈れと言われたとき、私たちに何を期待されたのだろうか?私自身、いつごろからこのような意識が芽生えたのか、ちょっと思い出しているのだが、昨年7月のDr.Kさんのご好意による温泉オフ会の対談ですでに語っていた。天の御心が地になるとはどういうことか、と。あるいは「まず神の国と義を求めなさい、他はすべて添えて与えられる」という約束をどう受け取るのか。求めよって、どうやって?結局、すべては神の国とは何か?に収斂するのだ。

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