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私のかつての父なる神観-パン種に注意

イエスは聖霊が来られるとき

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・」-John 14:23

と約束された。聖霊が内住されることは、父とキリストが内住されること。つまり三位一体の神が私たちを宮とされるのだ。そして内なるキリストとの交わりを味わうことも経験していた。その甘い愛、平安、喜びなど・・・。しかし、目の前に末期がんの兄弟姉妹が出現するとき、私はある意味絶望した。なぜか。

神は世界を創造した後、その運行を法則に委ねられた。自然科学の法則、人文科学の法則、社会科学の法則に。ゆえに例えば、たばこを吸えば癌の罹患率は上がる。高齢出産ではダウン症のリスクが上がる。だから、たばこは控え、若いうちに出産するように対応してきた。カネを稼ぐには世の法則をつかんで、それに乗ること。できる限り楽をして人生を楽しんできた。そして神は時に、摂理により私たちを導いて下さる・・・と。このような世界観(モデル・パラダイム)に従って生きてきたのだ。

すると、自分で制御できる領域と制御できない領域の仕分けが必要になる。以前から言ってきたが、髪の毛を引っ張って空を飛ぶことはできないし、そんな無意味な努力はやめよと。マインドがこのようにコンフォームされていると、ステージ4のがん患者にはもはや希望が失せるのだ。あるいは乳房を切除された女性が再生を祈ってほしいと来るときも。それは自分で制御できない領域の事象であるゆえに。あるいは摂理による導きでは手遅れであるゆえに。しかも父なる神は世界を法則に委ねられている以上、この状態に直接介入されることはない、と私のマインドはコンフォームされていた。だから祈りも無意味・無力となるのだ。

今回、これが根底からひっくり返された。自分の体で直接的癒しを経験し、神の臨在が手で感じられるようになり、その栄光を重さとして味わった。父なる神がすぐ目の前におられる感覚。私たちの地上の生活に直接に介入して下さる神なのだ。この経験をして、天で御心がなるとおり、地にもなるようにとの祈りが現実感を伴って、生きるものとされた。かつては何がなるのかも不明、きわめて曖昧なキリスト教の礼拝の式文としか感じられなかったのだ。いわゆる神の癒しとか、しるし・不思議についてはほとんどスルーのスタンスだったし、もっと言えばいかがわしいと思ってきた。

今回、この正体が明らかにされた。マルコに、船で向こう岸に渡ろうとしたイエス一行は、弟子たちがパンを忘れてきて、ひとつだけだった。

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。-Mark 8:15

弟子たちはそれまでに二回もパンと魚が増える奇跡を見ていたが、それを忘れ、自分たちがパンを忘れたことを責めているのかと思ったのだ。この期に及んでも彼らの目は開かれていなかった。パリサイ派のパン種とヘロデのパン種?実はこの二つが奇跡としての(=自然法則を超える)主の御手の介入の信仰を阻害するのだ。私は意識的にパリサイ派のパン種を拒絶していたが、見事にヘロデのパン種に侵されていた・・・。これらの正体がいったい何であるのか。What do you think about?

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