Entry

トップ > 信仰 > 霊の世界と物質の世界

霊の世界と物質の世界

再建主義の富井氏が実に興味深い記事を書いている:

tomii 2015/02/20(金)16:51

御言葉にしか頼れない

クリスチャン、とくにわれわれは、教えによって、心が聖められているので、悪霊が住みやすい状態になっている。

いろいろと雑念があって、物欲とかが強い人はまだ心の中にゴミがたくさん残っているから悪霊も住みにくい。

しかし、クリスチャンはいったん掃除して、整理整頓されている。
つまり、考え方が整理され、しかも「神の国のために戦うぞ」という戦闘態勢にあり、「それ用に」できあがっている。

だから、主人が変わると、新しい主人が利用しやすい空間になっている。
それは、戦車のようだ。

敵の戦車を奪って中に入ろうとしたが、いろんなものが雑然と置かれていて動きにくいし、自分用に改造されていて使いにくいとなれば、その中に入ることをためらう。

しかし、整然と整備され、きわめて簡単な操作で動くとなれば、敵も奪いがいがある。

だから、神学的な知識があり、世界が透けて見えれば見えるほど悪霊が入りやすい状態になる。

イエスが述べたように、「掃除がされていたので住み着いた」とある。

「しかも、仲間の7つの悪霊を連れてきた」と。

「最初の状態よりも悪くなった」と。

だから、神学的な知識を得て、理解力がアップしたら、その知識を用いて「理性的に」対処しないと悪霊にやられる。

私は、この体験を積んでいるから、みなさんにご忠告申し上げる。

私は、ほぼ発狂するところまで行ったことがある。

ソ連においてである。

まだ神様に頼るということを知らないころだ。

ガタガタ歯がなった。

「精神病になるなあ」と無性に悔しかった。

ぎりぎりのところで神は救ってくださった。

そのほか、「イエスの御名により命じる。悪霊よ、われより出で去れよ!」と祈ったときに、「ちくしょう!」という声が聞こえたことがある。

それはものすごい敵意に満ちた地獄の声であった。

ある教会に所属していたころ、朝の祈祷会によく来る老齢の教会員がいた。

彼は、職場で知り合った若い女性を教会に誘って礼拝に出た。

そのとたんに、その女性が精神病を発病してしまった。

霊媒体質の人は、霊が入りやすい。他人よりもちょっとしたきっかけで入る。

とくに女性は、子供を産む働きを与えられているので、体の構造だけではなく、精神的にも「受け」やすい。

霊的な世界に触れると、その影響を受けやすい。

経験上、男性の場合、人の顔の表情、目の動きなどに女性ほど敏感ではない。

塾や予備校の講師を長年務めていて、女子生徒のほうがこちらの気持ちの変化に敏感である。

表情だけで察知する。

男子は、ぼんやりしている。そういうことに興味がないようだ。

女性は、それだけ「受ける」情報に敏感で、察知する能力が高い。

「この人どこかおかしい。」「すがすがしい」「気持ち悪いものを感じる」というような言葉が比較的多い。

霊媒師に女性が多いのは「受ける」能力が高いからである。

しかも一般に、男性よりもまじめであり、心が宗教的である。

礼拝のような霊的な体験をすると、それがきっかけでいつも狙っていた変な霊がチャンスとばかりに入るのであろう。

霊を受けやすく、霊的な世界の知識が増した人は、正しい知識によって正しく対処しないと悪霊に翻弄されることになるので注意が必要だ。

正しい知識に基づく正しい対処の方法とは、「一喜一憂しない。パニックにならないで、聖書に基づいて理性的に問題を取り扱う」ということ。

悪霊は過去の体験、トラウマを餌として利用する。

恐怖を与えようとする。

引きずりまわしたいと思っている。

そうされないためには、「御言葉の約束に頼る」ということである。

「自分の考えではなく、御言葉に頼る」。

心配事があれば、「感謝をもって捧げる祈りと願いによってあなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

「そうすれば、人事を超えた神の平安があなたをキリストにあって守ってくださる」。

超自然的な守りを受けるには、「感謝をもって祈りと願いをささげること」である。

そして、何かの目標を作って、その実現のために仕事に没頭する。

余暇ができると、サタンが入る隙ができやすい。

常に「一歩上の目標を持つ」。

達成した段階で満足するのではなく、その上にチャレンジする。

過去の出来事が頻繁に思い出されるのは、悪霊に利用されているからである。

「すべてを善に変えてくださる」神に頼って、忘れることである。

(2)

悪霊は「常に」隙を狙っているので、われわれも「常に」警戒するべきだ。

自分の心を正しく管理できるようになれば、安定する。

しかし、その技術を身に着けるまでは動揺することがある。

なぜならば、神が用いようとする人は、「人間的な自信を奪われる」からだ。

頼るものがなくなる。

人間関係、学力、仕事の能力、家族、仲間、友人、国家、その他が崩壊する。

神が選んでいない人にこれらのことが起きると、絶望しかない。

しかし、神に選ばれている人は、聖書の御言葉に頼るようになる。

この「頼っていたものが崩れる」という訓練を経過しないようならば、その人は本当の意味においてクリスチャンにはなっていない。

神に依存することを学ぶならば、悪霊はそう簡単には入れなくなる。

人間的な信頼は、サタンの餌であり、われわれにとっては隙である。

ここからどんどんとサタンは入ってきてわれわれの内部を破壊し、ぐちゃぐちゃにする。

御言葉にしか頼れないのである。

ここで重要なことは、私たち霊が再生され、聖霊が内住しているクリスチャンには悪霊が憑く、つまりpossessionすることはない。possessionとは所有権を悪霊が有する状態で、意志までコントロールされてしまう。しかしクリスチャンも悪霊の影響、oppressionは受ける。それは思い(mind)を通して圧迫される状態。不安、緊張、思い煩い、強迫観念、妬み、嫉妬・・・。これにより感情は犯され、当然、意志も影響される。富井氏は自分の意志で「イエスの名により悪霊よ、出よ」と命じているので、possessionされていたわけではない。

女性が霊の影響を受けやすいという指摘も面白い。女性はもともと受動的容器の性質があるからであろう。受動性は実に危険な兆候なのだ

ともあれ、御言葉のみに頼ること。これはまことに同意。というより、御言葉に啓示された世界がリアリティなのだ。目に見えるいわゆる"現実"はリアリティではない。目に見えない実体を信仰によって把握し、語り出すとき、それは御言葉のリアリティをこの物理的時空間に現出させる。そもそも霊の再生、神の内住などはスーパーナチュラルな現象。ニコデモが人はどうして歳を取ってからもう一度生まれることができようかと言ったとおりだ(John 3:4)。さらに新創造!?新しい生命体?ニュー・クリエーション!?

かくして私たちはいわゆる目の前の何かを楽しむこと、これはこれまで私が十分に味わってきたことだが、にとどまらないきわめてディープな世界を知るべきなのだ。それは神の深み創造主の深み!まず自分がそれを知らないことを知ることからその冒険は始まる。

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
・・・
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:7-10

Trackback URL

https://www.dr-luke.com/diarypro/diary-tb.cgi/4759

Trackback

Access: /Yesterday: /Today: