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受動性の罠

下のコメント欄にCissacさんが書いておられるが、「自我を砕く」とか、「主を見上げる」とか、「みこころのままに」とかいった標語は一見敬虔に見える。が、これらはきわめて曖昧なのだ。自我を砕くってどういうこと?多分、話している本人も分かっていはない。「みこころのままに」とかになると、しばしば自己責任を回避するために言われる。受動性の罠。主イエスの言葉はこうだ:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。-John 14:12-13

主は癒しを行われる際必ず「あなたはわたしに何をしてほしいのか」とたずねられた。主よ、お分かりでしょうに!とは言うべきではない。主が回答を求めておられるのだ。はっきりと、これこれをして欲しいです!と申し上げたら良い。が、これができないのだ。魂が問題に絡め取られてがんじがらめになっている人や、何度も神に求めたのにそうならないと神に失望している人などは特にだ。声が出せない。祈りが出ない。思いが束縛されている兆候だ。

私たちは求めることが怖くなることがある。なぜか、神が回答してくださらないことをあらかじめ想定して、自分が傷つくことを避けようとしているからだ。期待しなければ、傷つかない。こういったメンタリティーの人は多いし、私自身もそのような要素を感知している。そこで十字架によって自分を否む必要があるのだ。すなわち御言葉の約束に従って大胆に求めること!これが自分の十字架を負うことだ。それは自己を完全に神に委ねること。are you with me? やせ我慢して、武士は食わねどの態度を取ることではない。わたしに何がしてほしいのか?求めよ、求めよ、求めよ 今日でも主はそう迫っておられる。

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