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アイデンティティー

信仰生活の質を決める要因は、アイデンティティーであると、最近とみに感じる。つまり、神はどのようなお方か、自分はどんな存在とされているか、敵はどのような者であるか。私たちがいだくこれらのイメージが私の今の信仰を決定する。

たとえば、罪を犯したとする。神に対して検事的な父親のイメージを持つ人はただちに裁かれると感じて自責感に陥るだろう。あるいはそのマイナスを挽回するために、父に認められようとして限りない消耗的努力に駆り立てられる。サタンはそれを煽り、罪定めの感覚でさらに追い込む。かくしてこのような父親のイメージをいだく人は霊的にoppressされる。

対して、すでに十字架の御子イエスの上に父はすべての怒りと裁きを下しており、イエスが流された血がなだめの供え物となって、安息された父のイメージを持っている人は、ただちに罪を告白して、血による洗いを受け、安息することができる。すでに神の子とされたこと、キリストにあって完全に受け入れられていることを主観的にも知っているので、これから認められようとしてもがくことはない。サタンの告発や中傷に対してもイエスの血と御言葉により対応できる。

Bill Johnsonが言うところであるが、病気を用いて自分の子を訓練することは、罪を用いて訓練することと何ら変わりがないと。病気の中で成長するといった考え方がキリスト教ではかなりよく見られることは事実だが、罪の中で成長するといった考え方は、少なくとも私の知る限り、ない。ここでも罪と病気の絡みが問われるわけだが、私たちの見解ではなく、父がこれらをどう見ておられるかが重要なのだ。つまり父のアイデンティーが問われる。それにはイエスの行動を見てみればよい、彼は父の完全なる反映だから。

結局、もろもろの神学にせよ、聖書解釈や解き明かしにせよ、それぞれが内包する神・人・サタンのアイデンティティーの持ち方次第で千差万別となる。ゆえに神の国をロゴスでとらえる限り、みんなバラバラだ。しかし、神がこの地上に介入され、サタンを退け、神の国のデュナミスにより不可能を可能にするとき、私たちは神を体験的に知り、味わうことができる。そして父と子を知るが、それは聖霊による。神の国は聖霊にある義と平安と喜びだから。

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