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預言者の霊

預言者の霊は預言者に服従するものである。-1Cor 14:32

この御言葉はすごい。預言者の霊(複数形)とは何か?もちろん聖霊の(現れ)こと。Vincentはこう解説する:

The movements and manifestations of the divine Spirit in the human spirit, as in 1Co 12:10.

私たちが癒しの言葉や知識や知恵の言葉を語り出すとき、聖霊は私たちの意志に服されるのだ。もちろん、いわずもがな、聖書の御言葉の原則に反しない限りであるが・・・。ゆえに私たちはサブスタンスに触れたら、すなわち信を得たら、語り出すこと。あるいはその自覚がなくとも、御言葉をdecree(法的効力の宣言)すること。これで一つの霊的任務が完結するのだ。ただ恵みを受けて気持ちよくなりたいだけの人もいると思うが、私たちは祭司であり預言者。そして王として権威を行使する必要があるのだ。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

神は「XXよ、あれ」と言われた、するとそれはあるようになった。この原則は私たちも適用されるのだ。しばしば魂(特に思い=マインド)ががんじがらめになっている人は言葉を発せない。敵に縛られたまま、その中で生きることに慣れてしまっている。彼らにとっては奴隷解放宣言が発効しているのに、あえて奴隷状態でいる方が楽なのだ。人はしばしば貧困・病気・困難・弱さ・自己憐憫など、ネガティブな状況にあえて留まるものだ*1。彼らにとってはそこがコンフォート・ゾーンになっている。だから主イエスは盲人に対して、「あなたはわたしに何がしてほしいのか」とか、「治りたいか」と質問された。その「治りたい」という意思表示が癒しあるいは解放への第一歩なのだ。

クリスチャンよ、語れ!

*1:この時に正当化のためによく使われるのが、イエスは病人を招くために来たとか、健康な者に医者は要らないとか、彼は弱者に寄り添ったとか・・・。これらは自己憐憫の投影に過ぎない。イエスは決して同情はしなかった。あわれんで、その状態から解放されたのである。

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