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神のわざはスーパーナチュラル

聖書の啓示はそもそもわれわれのマインドを超えている。つまり理解できない事柄に満ちている。たとえば、自分はよく知っていると思っておられる方も、次の御言葉をよく読んで欲しい*1

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

要するに私たちは二千年前、キリストと共に磔刑を受け、共に死んで復活し、新しい創造とされ、天のところに座せしめられた、というわけ。これが私たちの真のアイデンティティーだ。ところがこれを何気に当たり前のように読んでいる人はマインドが閉じている。これはスーパーナチュラルな事象なのだ!Are you with me?

聖書はそもそもがすべてスーパーナチュラルな記事に満ちている*2。神が私たちのうちに住まわれ、神の国がうちにあり、神と交わりをもち、神が私たちの祈りを受けて下さる。

イエスと交わって内側が平安と甘い感覚に満たされることも、天的な霊的領域にある私たちの霊と主の霊の相互作用というサブスタンスが、信によってこの地上にある私たちの肉体の神経系に"感覚"として現出されたものなのだ(Heb 11:1)。

私たちはつねにこの地上の物理的世界と天的な霊的領域の狭間に存在している。私たちが内側の霊を解き放つことは、天的領域のサブスタンスを解き放つことなのだ。だから信じた、それゆえに語るのである。その言葉はこの物理的世界において何かをなす。語り出された神の言葉が無益に帰ることはない(Isa 55:11)。

今回、『真理はあなたを自由にする』の続編を書いてみたいと思い出した*3。題して『神の法-自然法則を超える神の啓示-(スーパーナチュラルなディメンジョンに生きる鍵-faith。聖書は不可能を可能にする生き方を提示する)』(アウトラインだけpdfにて公開します)。

さて、またぞろ異端だ、カルトだ、ニューエイジだ等々、ひと騒動起きることでしょう人は自分のパラダイムやマインドから逸脱することに対しては、まず自分を守るために排除し、さらには攻撃すらしたくなるのが本性なのだ。

*1:実は日本語で聖書を読むとほとんど正確な理解が無理になる。たとえばヘブル11:1、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」とか。まったく見当はずれの訳である。
*2:きちんと定義しておくと、ナチュラルとはこの時空間における存在・事象。スーパーナチュラルとは霊的領域におけるサブスタンスのこと。
*3:本書もニッポンキリスト教においては、なんだかよくわからん本だとの評判だった。

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