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coming to oneself...

これらの約束、マジで受け取るならば、まことにすごいこと。しかし、これらを約束されたのはJesusその方だ。ゆえに嘘偽りはない!こちらの受け取り方に問題があるのだ。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

これが自分において成就する鍵は何か?ルカ15章の有名な放蕩息子の逸話にこうある。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この放蕩息子が言おうとしているセリフはかなり策略的だ*1。しかし父は待ち構えて喜んで迎えた。なぜか。彼が我に返ったからだ。KJVでは"he came to himself"とある。口語訳では「本心に立ち返って」。彼は放蕩したとき、自分を離れていた。つまり彼の遊びは彼自身の本心ではなかったのだ。しかし自分自身に戻った。自分の心の真実に気がついたのだ。

主はご自分の所に来る者に、たとえ盲人であっても、必ず尋ねた、「わたしに何がしてほしいのか」と。分かるでしょう、主よ、と私たちは考える。が、しばしば私たちは表向きの霊性や格好にかまけて、自分の本心を忘れる、あるいは抑圧する。本心でないことを主に求めても、決して叶えられない。主が「何でも」と言われるとき、私たちの本心を求められる。本心を願い求めるとき、内側が光と喜びに満ち、祈っていてワクワクする。サブスタンスを得ているから、したがって必ずそのとおりに現出すると分かっているからだ。

自分の欲しいものを自分で認めること。これ、けっこう難しい。しばしば私たちは自分で自分の心を取り繕ってしまうからだ。かくしてかなえられる祈りの秘訣は

coming to myself!

*1:ニッポンキリスト教では神の愛の例え話として説教されるこの逸話、かなりヤラセっぽく感じており、あまり好きではなかったのだ。が、12月以降、読み方聞き方が変わった。素晴らしい逸話だ。

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