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信仰の分け前

午後はGYMにてボディのメンテを。雨でジクジクだが、やはりボディを追い込むことは気持ちいい。

さて、癒しとか繁栄について触れると、なぜか微妙な反応が出る傾向がある。ある人は、信仰によって癒しがなされると書いたところ、異議を申し上げるとして、癒されない人が信仰がないような書き方はけしからんとのこと。繁栄も多分同じような心理によって反対意見が出るのだろう。彼らは言う、現実を見てみよ、クリスチャンでも癒されない人や悲惨な生活をしている人はごまんといるではないか。彼らは皆信仰がないということなのか、と。ちなみにニッポンキリスト教のスタンダードとも言える三浦綾子によるクリスチャン像がこれらの反対意見に組みしていると思う。

心の貧しい人たちは、幸いである。(←これがそもそも誤訳!霊の空っぽの人だ)
天国は彼らのものである。
(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)

 心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。        
(三浦綾子・新約聖書入門より)

実はこういった人が謙遜であるとは限らない。現実は逆なのだ。福祉の現場とかを見れば明らかだ。

なぜ癒される人と癒されない人がいるのか、私は分からない。Joelも分からないと証言している。事実彼の父親は長年の高血圧で腎臓を患っており、最期は心臓発作で逝った。しかし母親は末期ガンをきれいに癒されている。信仰があれば癒される、これは真理だ。しかしその信仰は自分で絞り出すようなものではない。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。-Rom 12:3

この「量り」とは"metron",Strongによれば"An apparently primary word; a measure (?metre?), literally or figuratively; by implication a limited portion (degree): - measure."あえて言えば、「分け前」が適切だろう。信仰は自分由来ではない。癒されない人は信仰がないのか、という人は、実は自分由来の"信仰"を頼みとしているのだ。だから信仰がないと暗に指摘されていると感じて勝手に傷つくのだ。誰もそんなことは言っていないし、信仰は分け前だから、自分が誇るものでもない。

聖霊によって分け前として分配された信仰をみんな持っている。それをどう活用するかは、それぞれの信仰の成長の度合いによって異なるだろう。信仰を活用できる人もいれば、無駄にする人もいる。その差はあるだろう。分かち与えられた信仰がある形を構成するようになるとき、それはサブスタンスとして、その時での固有の信仰として生きる。これが癒しの信仰であったり、必要の満たしの信仰であったりするのだ。この点、イエスは信仰を実に自由に活用できたのだ。

癒されない時はどうするか。ある人が言っていた。プランBはないと。神の言葉はあくまでも真理。信仰があれば癒されるのだ。ゆえに自分の経験や感じ方を否んで(これが自分の十字架を取ることだ)、主の前に出て、主のタッチを受ける。私たちが変えられるべきであって、御言葉を変えるのでは断じてない!ここにマインドのトランスフォーメーションがなされる。肉の思いは神に敵対する。それでどうして癒していただけるだろうか。悔い改めとは罪の白状することだけではない。マインドが深いレベルまで御言葉に従って造り変えられることなのだ。十字架により自分を否むとはこのことである。

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