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What the coming year 2012 will be

2009年後半から私は2010年は霊的にも世的にも相転換する年、つまり「ティッピング・ポイント」であり、2011年はそれが現れる年、つまり「マニフェスト」の年であると言ってきた。同時に「3.11」と「4.11」、そして「秋の動乱」を警告してきた。

では、2012年は?・・・・祈りの中で主から受けたおことばはかなり厳しいものだ。受けたままに記録しておこう:

  • キーワードは:
デストラクション(崩壊)&アンコトローラブル(制御不能)
  • 御言葉は:

すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ。』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を、通り過ぎるからだ。ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。・・・わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。・・・あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。-Amos 5:16-24

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより*1、むしろ神を知る*2ことを喜ぶ。-Hosea 6:6

終末においてキリストが真に求めておられるもの。それはキリスト教の隆盛でもなければ、世界の平和や統一、戦争や飢饉の撲滅、あるいは宗教や政治経済の融合でもない。それはご自身の花嫁であり、ご自身に完全なる信頼をもって、自分を明け渡す存在だ。キリストはいにしえのサマリアの女との邂逅の際のように、今もなお、このことにおいて深い渇きを覚えておられるのだ。

主はこれまで同様に、今後もさらに鋭くキリスト教徒とエクレシアの明確な切り分けをなされるであろう。それは霊と魂を切り分ける十字架による。「死と復活の原則」を通過したものだけが、神の目に高価で尊いのだ。それは御体の傷から解き放たれたキリストのいのちだからだ*3。神はキリスト以外のものを受け入れることは決してない。神によるふるい分けはさらに進められるだろう。そして多くの者がつまづき、神に対して嘆きまた神を呪うだろう。主はまことにぶどうの畑を通り過ぎられる。

追記:本日私は参加しなかったが、メッセージを聞くと、主の求めておられることはひとつだ。真理と霊による礼拝。地上の残された時間、どこまで主の渇きを癒す礼拝を捧げることができるであろうか?今週のニーの黙想とも通じるものだ。

追記の追記再建主義の富井氏が例のキャンピングの預言が外れたことをもって、ディスペンセイション主義(要するにプレミレ)はカルトだと主張されている。主の再臨があるから生活がアップアップして、教育も無意味になるんだとか・・・。やれやれ、なんでそうなるのだろう?私などは主の再臨を待ち望みつつ、大いに(でもないか・・・)勉強したし、マンションも買ったし、教育にも力を入れたし、何よりもよく遊んだし(いまだにか・・・)。

主はすでに王であり、主はあらゆる権威を得ておられ、天も地も主の所有だ。ただしこれが物理的に現れるのは、タイムラグがあり、次の経綸においてだ。どうも富井氏の刷り込まれた「プレミレ」の教えがそもそもおかしかったのではと疑ってしまう次第。

参考:今年の「秋の動乱」については、私はNWOへの一里塚と見ているが、シオンの議定書に次のようにあるとのことだ。
続き

大衆はあらゆる機会に自己の野蛮性を発揮するもので、大衆が自由を握れば、必ず無政府状態に変えてしまう。

我々が「自由、平等、四海同胞」という言葉を民間に放ったのはすでに、古代のことである。それ以来、これらの標語は、無意識のオウム返しによって、何度となく復習され、世界の幸福と、個人の自由とを破壊した。

族は人民の幸福と密接な関係にある『自己の利益』の為に、人民の自然的保護者となり、人民の扶養者であった。それを人民は我々の指導の下に撲滅した。今や人民は無慈悲な成り上がり者や詐欺漢である、富裕農民の圧迫の下に呻吟している。

我々の世界独裁君主を承認することは、あらゆる憲法を最終的に排除してしまう以前に行うことも出来る。そうした好機は、永年の動乱に苦しみ、我々の仕組んだ為政者の無能のために、困窮の極に達した諸国民が、これら支配者の面前において、次のごとく叫ぶ時が到来する。即ち、「こんな連中を片付けてしまえ。そして、我々がすべてを統一し、かの永遠の闘争の原因たる『国境、宗教、国家的打算』などを除去し、我々が、我々の支配者たちや議会から求めようとして徒労に終わったところの平和と安泰とを、遂にもたらすような世界的独裁君主を我々に与えよ」というのがその叫びである。

諸国民を、かような絶叫へと誘導するためには、永年のたゆまざる労作が必要である。我々は、あらゆる国々において、人民と国家との相互関係を毒さなくてはならない。また我々は、全人民をして、「嫉視と憎悪と戦争」あるいは「欠乏、飢餓、疫病の伝播」等によって極度に困窮せしめ、その結果、非ユダヤ人たちは、我々の金力と完全なる主権とに服従するより外に、何らの逃げ道がないようにするであろう。


*1:いわゆる宗教儀式。
*2:この「知る」の原語は"da`ath"、アダムがエバを「知った」の"yâda`"からの派生語。つまり単なる知的理解ではなく、人格的な関わりを意味する。
*3:「これはわたしの骨の骨、肉の肉」と主は言われる。

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  • 2011/10/23 11:56
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Luke

そうですね、感覚の欠如は致命的です。霊的な事柄はディスカッションして共有できるものではないです。見るか、見ないか。主が何かを語られるごとに群衆が分けられたように、常に「ふるい分け」が起こります。いのちの感覚がさらに繊細かつ鋭くさせてもらいたいと思います。

  • 2011/10/23 19:02
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zion

大丈夫、鈍感なぼくでも救われた。
『捨てる神あれば拾う神あり』です。昔信じていた神に捨てられて今の神(イエス)に拾われました。先ず捨てられることが重要。

わっかるかなあ~わかんねえだろうなあ~

  • 2011/10/23 22:12
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